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2017年1月25日

面白い!!

Devoyonによるテクニック講座最終回は2月28日。KAWAI表参道で行われる。その翻訳を今おこなっているのだが、これが・・・ものすごく!!!面白い。今回のテーマは

テンポと緊張、暗譜、ピアノに向かって。

テクニックに直結しそうでもなく、タイトルをみただけでは、いったいどんな話になるのかわからないなあ?と思っていたら、出来上がった原稿は、趣味の方も専門的に学ぶ方も、演奏者、指導者、誰にとっても驚くほど面白い内容になっていた。

テーマ①テンポとは何か? 音楽の緊張って?

わかっているようで意外とあいまい、でも私たちにとって理解することが不可欠なポイントが、日常生活を例にあげることで、とってもわかりやすく説明されている。

そして何よりも誰もが気になるテーマ
②暗譜!

これについては、緊張をどうやって乗り越えるかとか、なんとか生き残れるおまじないを考えるのではなく、

1) いったいどうして記憶があやしくなるんだろう?
2) 考えてみれば、脳っていったいどういう仕組みで記憶をしてくれているのか?
3) それならこうやって練習したほうが良い
という、納得のプロセス。

特に、その脳の話が本当に面白い!

③ピアノに向かって
普段時間のないDevoyon先生は、いったいどうやってテクニックの質などを維持されているのでしょうか?何かヒントはありますか?というご質問をいただき、どんな答えが出るのか、これまた必聴です。

目から鱗だらけの最終回。学生さんも、音楽愛好家も、指導者の方も、是非ご参加いただきたい会になりそうです。


2016年9月 4日

脱力について (2)

(続き)
そして、もうひとつ、ピアニストに不可欠なのに、かなりないがしろにされているものがある。それは背中。背中といっても、肩甲骨の周りにある大きな筋肉だ。腕というのは、鳥の羽と同じく背中の肩甲骨のところから生えている。肩からではない。肩はただの通り道だ。だから肩を上下させると、背中から指までの道筋を邪魔するだけなので、何の役にも立たない。

その背中が働いていない人が本当に多い。猫背や前かがみというのは、背中の筋肉が休んでしまっているので、腕を支えていない状況になる。そうすると、腕は完全に弛緩をしてしまっているから、当然ずしっと重さが指先にかかる。そうなると、速い個所や軽い個所などは当然弾きにくい。なんとなく重くて弾きにくいぞというからだからの本能を受け取った本人は、なんとか腕を軽く感じたくて、肘を横に張り出したり、肩をあげたり、肘から肩の間の腕を無理に持ち上げたり、という癖がついていく。こういう人が本当に多い。

肘から弛緩なんてしない。膝から弛緩して歩くだろうか? 変な歩き方になってしまう。膝は、柔軟にしておくことで、足の動きについて来ているだけだ。膝から足を出しているのでも、膝から緩めているのでもない。肘も同じ。肘から何かをしているのではない。

ピアノを演奏するとき、よほどの音量を要する箇所でない限り、腕全体や体全体の重さなどが求められることは少ない。肘から先の前腕までで十分なことが多い。つまり、それ以上の重さがかからないために、実は背中で腕を始終支えているのだ。私はこのことが分かってから、かなり演奏が変わった。つい最近のことだ。背中で支えることを覚えてから、以前よりかなり自在にコントロールができるようになった。楽になったのだ。

本当の意味の弛緩。つまり必要なものは働き、必要ないものを除く感覚がつかめた生徒はみな、「こんなに楽なんですか?」という。耳や頭、集中力は本当にきついが、体力的には思っているより楽な作業でなければいけない。そうじゃなきゃ、2時間のプログラムどころか、連日本番のあるプロの人など、体がもたないことは明らかだろう。

脱力・・・この言葉が悪いのかもしれないが、これをつかむかどうかは本当に大きな転機となるだろう。私が出会うひとに、我慢強く、伝えていけたらと願っている。

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2016年8月28日

脱力について (1)

ピアノを演奏する際の"脱力"は永遠の課題ではないかと感じるほど、伝えるのも、理解してもらうのも難しい。ひとことで要約すると、脱力とは、"必要のない"緊張をほどくことだ。つまり必要のある緊張は残しておかないといけない。でも、必要な緊張って何?

ここが難しい・・・(´・ω・`)

歩くことでたとえてみよう。例えば足。足首が本当に脱力していると足はどうなるか。そう、ぬいぐるみの足のように、だらっとぶら下がる。これでは歩けない。つまり

足首が足を支えていないと歩けない。

ピアノも同じで、手首は手を支えていなければならない。そうでないとぶらっと落ちるので、指は完全にティッシュペーパーのようになってしまい、使い物にならない。結構このティッシュペーパーフィンガーで何とか弾いてやれ、と育ってきてしまった人が多く、そうなると
音を鳴らすために、腕や肘を押し込んだり、前かがみになったり、と労力は大きいが音が鳴らない、という非常に疲れるピアノの演奏法を覚えてしまう。そしていくらがんばっても、周りから大きいホールで印象が薄い、とか音が届かない、と言われてしまうのだ。

ピアノは打って鳴らす楽器だ。ティッシュペーパーフィンガーでは鍵盤に速度を送り込めない。速度が送り込めないと、ハンマーが音を飛ばしてくれない。腕で押し込んでも、速度はあがらないのだ。だから、腕をいくら押し込んでも音が実は遠くに飛んでいかず、自分の前で音が鳴っているようなのに、遠くに通らない。

ピアノを弾く際の手首の大きな役割の一つは、手を支えることなのだ。脱力しなければと、手首をふらふらさせようとするのは、正反対の結果を生んでしまう。手首は実は、たえず仕事をしている。

そして、もうひとつ、ピアニストに不可欠なのに、かなりないがしろにされているものがある。(続く)

2016年8月26日

MusicAlp2016

今年も無事にMusicAlpの講習会が終了した。私は、人数としては42名のレッスンをさせていただく機会となった。その中には、レッスン回数1回の人から、5回の人まであり。様々な人間と出会うことで、私にとって毎年はかりしれない貴重な機会になっている。

今年強く残った印象は、大半の生徒さんが心の扉をすぐに開いてくれたこと。これはレッスンの核心にすぐに入るために欠かせないプロセスだ。各自から学びたい意思が強く感じられ、心の扉が開いていたことは、とてもありがたかった。

そんな向上心あふれる若者だが、共通して不足していると感じたことが2点あった。ひとつは、テクニック面での模索。もうひとつは、楽譜の中から読み取る能力。

テクニックに関しては、何かおかしいと感じながらも、その原因をじっくり考える時間をとらず、肘を動かしてみたり、体をうねらせてみたり、なんとかカバーするという要素で回避しようとしている生徒が多くみられた。その結果、変な姿勢で無理をしていても、それが本人にとっては"慣れた"ポジションとなってしまい、無理がかかっていることに気が付かなくなる。今後のことを考えると、今、それを治すことが緊急だと感じた生徒には、そのことに絞ってレッスンをするケースも作ってみた。

基本的に私は、自分で考えてもらう力を養ってもらう方向でレッスンを進めるようにしている。私がどうこうアドヴァイスをするより、自分で考えたほうがあとにしっかり記憶として残るからだ。そういったレッスンの過程で"考える"ということ、いや、"考えつくす"ということに慣れていないと、ほぼ全員に対して感じた。少し考えてみることはあっても、つきつめていない。そのうち、考えることに疲れてしまい、私があまり質問すると、集中力が切れていく。

楽譜の中から読み取る力に関しても、同じことがいえた。ああしたい、こうしたい、という欲望があることはすばらしいのだが、なぜそうしたいのか、どうしてそう感じたのかを楽譜の中から見つけることができない。それがないと自分の感性に裏付けがないまま演奏するので、中途半端になってしまう。フランス音楽では、Crescendoはどれぐらいかけていいのでしょうか・・そんな質問をされたこともうなづける。どれぐらい・・など答えることはできないはず。というより、答えは楽譜の中にある。こういう理由で、こんなクレッシェンドを作りたい、そんな確信を楽譜から見つけられれば、おのずとCrescendoは生まれる。

楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気が付いてくれた生徒は、目が輝いていった。逆に、考えることに慣れず、与えられるのを待つことに慣れてしまっている生徒は、楽譜の中にたくさんの落とし物をしていることに気付くと、やる気が薄れていくように感じることもあった。楽譜や楽器から生まれる音にはたくさんの宝物があり、無限の可能性をああでもない、こうでもないと何年もかけて探っていく。その作業が楽しいと感じるなら、続ければよい。面倒くさいと感じるなら、芸術家には向いていない。という言葉をかけざるを得ない時があった。芸術家たるものを目指すからには、そのことに今こそ気付いてほしいと感じたからだ。

この夏、私にとっては転機となる経験があった。あえて言えば決して良い経験ではない。
まさにどん底につき落とされるようなものだった。でもそこから、もう一度自分が何をしたいのか、何をすべきか、何ができるのか・・そんなことを考える機会になっている。まだはっきりとした答えは出ていない。まだしっかり立ち直れてもいない。でも、私は自分のためにも、生徒のためにも、全力で考え抜くことが好きだということだけは間違いない。そうすごした時間は決して後悔はない。だからこそ、いま目の前にある機会に全力を注ぎつつ、次の一歩は何を踏み出せばいいのか、考えている毎日だ。そういう意味で今年のMusicAlpも私にたくさんのことを考えさせてくれている。

2016年2月 7日

集中力とは

もし「演奏中、集中力を保つようにね!」と言われたら、どう解釈するの?と生徒さんに聞いてみると、意外とあいまいな解釈をしているのだなと感じた。

生徒:暗譜が飛ばないように、あそこで転調して、あそこであーなって・・・、再現部はこうなる・・・。などと考えることで集中する・・・??

とんでもない。自転車で観光に出かけたり、歩いて長い距離を散策するとき、行先までの道のりを大体頭に入れて出発する。でもいざ出発したあと、あと300メートルで左に行って、そのあと右に行って、それから信号を見落とさないように・・なんて思っていたら、たどり着くだろうが散策どころじゃない。なにも味わえない。

本番の演奏では、たどり着くかどうかの競争をしているのではないのだ。

もちろん前述の道のりを把握し、大体の目印を知っておくことは当然しなければいけない。そして細かな音作りや、細かなテクニック・・・様々な詳細を丁寧に練習しておく必要性は言うまでもない。でも実際舞台で演奏するときは、それを"再現"しようとしたり、"練習した通りに"出そうと思っていたら、まずうまくいかないだろう。

なぜ?

何よりもまず、人間は機械ではない。準備した通りになんて出せない。まったく同じ音色を人生で2度出せるかと言われたら、出せないかもしれないとさえ思う。

それに、本番というのは、練習とは違う環境で演奏するからだ。もし練習していたところと同じ会場で本番を弾くとしても、緊張も違えば、客数も違う。気温も違えば、光も違う。響きも違えば、出てくる音も違う。すべてがそのときだけの雰囲気なのだから。

たとえばリンゴを描こうとする。こんな感じと思って書き始めたところ、書き出しの太さが思ったより違ったとしたら、それは"失敗"ではない。思ったより違った太さででたら、そこからリンゴになるように整えればよいだけだ。ただ、リンゴのつもりが家を書き始めた、など、あまりに想定外のことが起きないように、あらかじめ何をどういう風に描きたいのか、準備というものをしておくだけだ。

演奏中集中するということは、何よりもまず、いま生み出した音のいく末を追いかけることにあるだろう。どのように音が伸び、どのように消えていこうとしているのか。音の意思を聴きながら、次の音を置いていく。
耳を研ぎ澄ませて、生まれ行く音のいくすえを聴き続けることで、演奏家には集中が生まれ、音楽に緊張が生まれる。

では、速い音が並ぶところはどうだろう。当然いちいち一音ずつ追っていたら、どんどんテンポが遅くなっていってしまう。そこで大切なことは、音楽の"言葉"だ。日常の言葉でも、たとえば "音楽大学" ということばをしゃべってみるとき、お ん が く だ い が く
と一つずつ確認しながらしゃべったら、当然不自然になる。頭の中に潜在する、まとまりを作るという能力を用いて、音楽大学 というものを一つのまとまりとして認識する。抑揚が生まれ、なんというか、言葉のリズムのようなものがあるだろう。

音楽も同じだ。たとえばショパンの作品10-8のエチュードで、右手を
ラソファドラソファドと1音ずつ思っていたら、弾けたもんじゃない。少なくとも8つの16分音符、さらには1小節分(16分音符16個)ぐらいをひとつの単語のように感じないといけない。たとえば音楽大学という言葉を我々が話す場合、そのことばを一息で、きれいな抑揚に響かせるよう頭の中で曲線のように言葉をイメージする。そして一つ一つ強調しないものの、どの文字も抜けず、そのイメージの曲線に乗るように何度か繰り返して発音することで、すらっと"音楽大学"と発音できるようにしみこませたわけだ。そしてしみこんだものを発音するとき、当然いちいち唇の動き、舌がどこにあたっているかなど考えない。

音楽も同じで、まずは ら そ ふぁ ど ら そ ふぁ どと一つずつきちんと発音できるようにして、それから音同士の縫い合わせ作業に入る。まずは4つ。らそふぁど をどう並べたら曲想にあう、柔軟でなめらかな曲線に響くか想像してみて、音色、抑揚を選びぬいあわせていく。

それができたら、らそふぁど らそふぁど の2グループをいかにつなげることで、コピー貼り付けの2回ではなく、一つの言葉に聞こえるか探してみる・・・そのようにして、1小節が一つの単語かのように作っていくのだ。

そして、いざ実際演奏するときは、"音楽大学"という言葉と同様、つくりあげた一つの音の言葉を全体として聞きながら弾く。全体のバランスを聴きながら弾いていくといえばよいだろうか。最初の音が思ったより大きかったら、そこから美しい曲線になるようほかの音をつじつまを合わせて並べればよい。 

集中=とぎすまされた耳


こんなあいまいな理解はたくさん見られる。その一つとして "大きな音""緊張のある音"・・・音 についてだ。これについては 3月に行うDevoyons' Villageの特別講座(3/27)でお話をさせていただく予定なので、興味のある方は是非。


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2014年11月22日

なぜ必要なの?(おまけ) 音楽以外の勉強・・数学、国語、地理・・など。

私は大学で音大に行くまでは普通の学校に通ってきた。思春期の私は、ときどき
――なんでこんな授業を受ける必要があるのかなあー。
とぶーたれながら授業を受けていた時期もあった。音楽やるのに、なぜ物理?なぜ哲学??
数学が好きだった私は、証明の授業とか、確率とか、熱心に勉強してきたし、物理や化学も大好きだった。歴史関係は全然覚えられず、大の苦手だったけど・・・。
でも、今となっては円周率すら忘れ、面積の出し方も完璧に忘れた。忘れるのも、ものすごく早いのだ、私は。( ̄^ ̄) エッヘン

どうせ忘れるなら、その勉強は無駄だったのだろうか。面積の出し方を覚えたところで、人生に役立たないのだろうか。

それは違う・・・・その一生懸命やってきた時間は、思考力や、客観的な物の見方、応用力など、人間として生きていく上で必要なものを養ってくれていたのだ。おさない私はそんなことに、学校を出て、だいぶ後になって気が付いた。

もっとちゃんとやっておくんだった・・・('〇' ;)

人生に無駄なものなど一つもない。自分がするすべてに全力を注いでほしい。


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2014年11月19日

なぜ必要なの?(3) 構成を考えること

前回までに書いたようにハーモニーを知ることは大切だ。ただ、気を付けなければいけないのは、ここがドミナント、ここが1度になっている、ということだけを知っていても音楽という言葉は語れないということだ。同じように、ここが何調、ここで違う調に行っていると転調箇所がわかっていただけでは音楽にならないのだ。ここをしっかり理解しなければいけない。

和声の勉強と音楽を決して切り離してはいけない。

いったいどうして和声がわかっているだけや、転調がわかっているだけでは音楽にならないのだろうか。

これも言葉でたとえてみよう。たとえば、誰かに物語を話してきかせてもらっているとする。まえがきがあり、そこから主人公が現れ、ほかの登場人物が加わる。でも、問題はそこから先だ。各登場人物が、それぞれ自分のしたいことをし、自分の話だけ語っていったところで、変化はあるかもしれないが話としてなりたたない。

転調やハーモに変化、それらの『何かが起きている場所』を見つけた後はそれを一つの作品として組み込まなければいけない。そのためには、絵を書くように一歩離れ、ピアノからもついでに離れ、全体を見る必要がある。きれいなお花、きれいな家、きれいな木、きれいな山を描いても、それがバランスよく互いを支え合っていないと一つの絵にはならないだろう。どれをメインにし、それを引き立てるために、ほかのものはどういう位置づけにしたらよいのか、それをピアノから離れてみていくことも大切だ。

そうじゃないと、たとえばバッハのフーガなどは、主題の場所はしっかりわかっていても、そればっかり出したところでテーマは聴こえつつ、とめどなく転調を繰り返し、終わってみたら何も構築されていなかったという演奏になってしまう。フーガというものは、一声から始まり、ハーモニーの変化を通りながら、レンガを一つずつ積み重ねていくように構築していく建造物なのだ。ハーモニーと全体を見ながら積み上げていくことで、フーガの最後で実はすばらしい建造物が出来上がっているというわけだ。

ハーモニーを見ること、構成を考えることが何の役に立つのか。それは紙の上の音の連なりから、いったいどこに向かって、どこで閉じているのか、文章のどこが強調されているのか、という道筋をみることができる。つまり音楽に道筋を与え、命を与え、平面から立体的にするのだ。

和音を分析すること、それだけが大切なのではなく、それを通していかに音楽を説得力があり、自然であり、作曲家の求めたものに忠実に表現できるかが大切なのだと思う。

テクニックを勉強することが大切なのではなく、そのテクニックを通していかに自分の求める音に近づけられるかが大切・・・それと同じだ。

すべては音楽のためにある。

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2014年11月16日

なぜ必要なの?  その② ハーモニーを知ること ~前回の続き

たとえばこの曲:
Chopin Op9-2Edit.jpg
右手のメロディーだけをみていたら、曲がシーソーとはじまった時、ソにやや向かったあとは、ファソファミの方へすっーと降りてくるのが自然だろう。

でも左手の赤で丸をした和音を見てみると、この和音は、この曲の主調である変ホ長調からみると、ちょっと変わった和音だ。だからこそ臨時記号がついている。(おまけ:臨時記号は文字通り"臨時"になにか起きる時に付くので、ハーモニーや転調を探すときのサインになることも多い。)

この赤丸の音が何かが起きた場所だ、とわかったあと、これをどのように用いるか、どんなイメージをするかは、ある程度は演奏者の自由だと思う。でも何らかの形でこの一風変わった和音の箇所に音楽的な緊張が生まれないといけない。それが作曲家が私たちにハーモニーを通して示したサインだからだ。ここのケースでいえば、右手の伸びているソの音に続くファソの音のところで、まだ緊張を緩めないでくださいね、と赤丸の和音が示してくれていることになる。

同じようにその先の青い丸。青い丸の直前にはヘ短調の5度(属七)の和音がある。本来は五度から普通に1度になって閉じるのがルールだが、その前に、ワンバウンドするかのように、この青丸の和音を挟んでいる。さっきも書いたように、このワンバウンドにどんなイメージをするか、たとえば『何か自分に説得するようにうなずくような感じ』とか『ちょっと訴えるような感じ』とか・・どう解釈するかは演奏者の自由である部分も大きい。(自由と言っても前の記事に書いたように、ショパンはショパンでなければいけないので、その中での"自由"だけど。)ただ、この和音が音楽的に何かを色づけていなければいけないことには変わりない。

それが音楽にあらわれていないと、いくら和音がわかっていても、先生に "ここは何の和音?"と質問されることになるのだ。つまり先生は、ハーモニーを確認したくて質問しているわけではなく、音楽として現れていませんよ、というメッセージを送っているわけだ。

ハーモニーは音楽の道しるべでもあり、特別な和音がある時などは、作曲家が音楽的に何かを求めているサインでもある。それを知るために、ハーモニーを見ることはとても大切になる。でも、ハーモニーをみれば充分なのだろうか...?
(続く)

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2014年11月13日

なぜ必要なの?  その② ハーモニーを知ること

最近はよく、ハーモニーは?という質問を耳にすることが多いのか、楽譜にV, I、IIなどと細かく書き込んである楽譜や、ここのハーモニーは?と聞くと、属七、などスムーズに答えられる生徒さんを目にすることも多くなった。

でも、ふと考えてみて欲しい。ハーモニーがちゃんとわかっているのに、なぜレッスンで先生に、ここのハーモニーは何? と質問されたのだろうか。

そもそも、演奏するうえでどうしてハーモニーを知る必要があるのだろうか。
____________

音楽は 「音で語りかける言葉」だ。言葉と同じように、
-文章のはじめや終わりがあり、
-文法と同じようにルールがあり、
-抑揚がある。
だから
-呼吸も必要だ。

私たちが日常で言葉を話すとき、生まれた時からの積み重ねで、ちょっとした文章なら、
さっと目にすればどのように抑揚をつけてしゃべったら良いかわかる。

『今日学校に行くとき、近所の人に会いました。』

こんな文章は、大体の場合、見てすぐ普通に抑揚をつけてしゃべることができるだろう。もちろん例外的に、
ある単語を強調して話さなければならない時は別だけど。

でも少し知っている程度の外国語だったらどうだろう。ちょっと考えて頭で文章を作り、頭の中でイントネーションを考えつつ話すだろう。

西洋音楽は私たちにとって外国語だ。だから、最初はハーモニーがわからなくても恥ずかしくなんてない。でも外国語と同じく
1つずつ丁寧に学ぶ必要がある。その時、音でできた一つの文章をどんな抑揚で語ったら良いのか、
それを考える時に、ハーモニーというものがその目印になる。
(続く)

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2014年11月10日

なぜ必要なの?  その① 音楽を聴くこと  ~前回の続き~

前回のブログで脱線ということを書いた。でも実はただ脱線というだけではすまされない。

たとえば、私をよく知らない誰かが、もし

りかこさんって、ふりふりのレースが付いた、かわいい洋服とか似合う人なのかなあ (゜.゜)

と聞いたら、私を知るみんなのリアクションは

 
" ( ̄w ̄) ぷっ"


であろう。

これを読みながらうなずいたア・ナ・タ、

失礼だ。(-o-)(-o-)(-o-)


ま、確かにその通りだけど..............( _ _)σ


でも私に会ったことがない人は、私のことをそう想像することだって可能なわけだ。


音楽もそうで、何も知らなければ、ドビュッシーをブラームスのように澄まして弾けてしまったり、ショパンがリストになっていたりという、結果として『ぷっ』と笑われてしまうような間違いをしていることになる。

実際、日常では"恥ずかしい"と感じるこのような"勘違い"も、音楽では平気で恥ずかしい演奏をやってしまっていることになるのだ。

恥ずかしいだけではなく、私たち音楽家は、作曲家に対して責任があることも忘れてはいけない。

ドビュッシーとブラームスはまだ遠いとしても、

ハイドンとモーツァルト
プロコフィエフとバルトーク
ドビュッシーとラヴェル

などを弾き分けられるかというと、少し難しくなってくるだろう。

これらの違いは、ことばで説明するよりも、身体で感じるのが一番。だからこそ、たくさん聴くことが必要になるのだ。

知らないということは、時に恐ろしい。


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2014年11月 8日

なぜ必要なの?  その① 音楽を聴くこと

小さいころから、"たくさん音楽を聴きなさい"という言葉を耳にする。でもいったいなぜだろう?

曲をたくさん知ったほうが良いから? もちろんそれもあるかもしれない。ありがたいことに人生ですべて学べないほど山のように音楽作品はあるから、たくさん聴いて触れるのも良いだろう。

でも、それだけではないと私は思う。

もし誰かに良く知っている身近な友達や家族について、OOさんってどんな人?と聞かれたとしよう。たとえば、あなたのお父さんどんな人?とか。

静かだけど厳しい。面白いけどせっかち。あるいは
真面目なようで実はひょーきん。(←うちのとーちゃんの場合)

など、少し考えたら言葉にできることがいくつかあるだろう。

でも、学校や仕事場で時々すれ違う程度のひとについて、
OOさんどんな人?と言われたら、背が高くて細い、とかメガネかけて賢そうとか・・・表面的なあたりさわりのないことしか答えられない。

なぜかというと、特にその人と面と向かって話し込んだことなどなくても、身近で何度も時間を共にしていると、その人間性や考え方、その人の傾向などがいつの間にか浸透していくからだ。

音楽も同じ。同じ作曲家でもたくさんの音楽に触れておくと、その人の言語、傾向、色、息遣い・・が見えてくる。100%とはいわなくても、傾向が見えてくる。そうすれば、ベートーヴェンをリストのように弾いたり、ラヴェルをショパンのように弾いたりという"脱線"も免れられる。

続く


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2014年5月29日

色(最終回)

他にもある。例えば、ショパンのスケルツォ二番冒頭。 シーラシレファ、ラシレファッッッ ・・・シッ と来るこの5小節目始めのシのタイミング。これをインテンポの中ではあるが、テンポいっぱいいっぱいぎりぎり遅めのタイミングで入ると、直前の休符に更に緊張が加わる。せかしたような切迫感のある曲なら、インテンポの中で、ほんの少し早めに入るような感じで音を置くと待ちきれなかったような印象が出る。これは

色=表情 その③
タイミングによって表情に変化を加えるケース。

これらはほんの一例で、いくらでも表情を変える方法はある。それを探すのが音楽の醍醐味で、ピアノという楽器の可能性に驚かされ、引き込まれていく。

音に、そして響きに敏感になって、自分の求める物にできるだけ忠実に近づけるよう、探しぬく生徒が一人でも増えてくれることを願っている。

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2014年3月18日

色(3)

じゃあ、今度は例えば ソドミ という和音があるとする。これに暖かいとかホッとするような表情を出したかったらどんな可能性があるだろう?

生徒:重さをかける?

こういう返事は本当に多い。とにかく『曖昧』なのだ。もちろん音楽には、これ!という一つの答えがあるわけではない。でもそれと曖昧では話が違う。

一つの音のイメージを持ったら、その音に近づくようできるだけ突き詰める。それができたら、今度はほかの色や方法があるかもしれない、と探してみる。そうすることで想像力、そして耳が育っていくことにつながる。でも曖昧にしては絶対にダメだ。耳が曖昧を覚えてしまうから。

ハンマーが弦を打って鳴らす、つまり打楽器要素を持つ楽器であるピアノにいくらうんしょこうんしょこ重さをかけたって音は暖かくなってくれない。

話を戻し、ソドミという和音を取り上げてみよう。和音の各音を▽と〇と□という三つの積み木だと思ってみよう。例えばソドミという和音の積み木を作るのに、ソが▽の積み木だとすれば、その上に積み重なる積み木はグラっとするのがわかるだろう。でも□がソだったら、その上に積み重なる和音を安定感をもって支えられる。つまり、和音の一番低い音を▽のような鋭い音を選ぶか、□のようなどっしりした音を選ぶかで、同じソドミでできているはずの和音の表情が不安そうな表情になったり、安定感のある和音になったりと変わるわけだ。これは

色=表情 その②

バランスによって表情を変えるケース

和音の一番上の音で話をすると、上の音を明確な細い音にすると、上へ飛びあがりそうな和音になるだろうし、丸みを帯びた音にすれば、和音の表情が和らぐ。
どうやって細い音や安定した音を作るかは、また別の話なので、これを始めると延々とこの記事が終わらなくなってしまうから、その話はおいておこう。(*- -)ノヽ△ポイッ

続く

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2014年1月30日

色(2)

前回の色についての続き。

では、音楽でいう色とは何か・・・

それは音が持つ【表情】だ。

生徒の話に戻ると、暗いとか明るい、暖かい音、冷たい音...そんな、レッスンでよく耳にする言葉の意味をじっくりと考察することに欠けていると感じた。暖かくと言われたら、『暖かく』と楽譜に書いてなんとなくそんな音を出して通り過ぎる、そういうケースを本当に多々耳にする。きっとまだ "探す"ことの面白さが見いだせていないのだろう。

私:あのね、例えばこの音

--といって私が 「ド 」と1音鳴らす--

私:この「ド」は何色だと思う? 
実はね、何の色でもない(!)んだよ。

言い方を変えれば、一音だけこうやって弾いても
明るくも暗くも、幸せにも痛みにもなり得るっていうこと。

生徒:ポカーン~(・・?)  (地蔵、凍る・・・の巻。)

私:例えばね、少し前にすっごくハツラツとした音楽があって、その後にポツンと今の『ド』が来たら、悲しげに聞こえるかもしれない。 あるいは、すっごい緊張した音楽が前にあったら、ホッとして聴こえるかもしれない。つまり、前や後ろとの関連でも音の色は変わる。だから、その音だけ練り回して練習すれば良いとは限らないのはわかるよね? 

ここで冷凍地蔵だった生徒は、解凍地蔵ぐらいには戻ってきた感じである。

今の話は

色=表情 その①
『前後の音楽と比較して表情を生むケース』

である。 

(続く)


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2014年1月14日

色 (1)

音楽でよく、もっと色を!と言われることがある。私も生徒によく使う言葉だが、「はい」と言って弾き直す生徒の演奏に色の変化が見られないことも多い。一番気になるのは、弾き直した後に変化していないことに気がつかないことだ。

生徒の頭の中で、音楽で言う「色」とは何なのか漠然としている気がしたので、尋ねてみた。

私:ねえ、音楽で言う色って何だろうね?

生徒:え?.........(・_・;)  具体的な色ですか?

私:(質問の意味が良くわからず)それでも良いから言ってみて。

生徒:ここはオレンジ。

私:σ(^_^;) あは・・・・

私:でもさあ、オレンジと思っても聴いている人にオレンジって伝わらないよねえ。

生徒:うーん、じゃあ色とは感情のことですか?

私:というと?(お、近づいてきたぞ)

生徒:悲しいとか、嬉しいとか、暗いとか......

私:さっきのオレンジと一緒でイメージを持つことは素晴らしいんだけど、問題はそれを音で伝えることだよね。その感情はどうやって音で伝えるの?

生徒: ......(¨ )

生徒、ここで『地蔵化』である。
*地蔵化とは、村田用語で "容量を超えて思考回路が止まってしまった状態" をいう。


もちろんイメージを持って目指すものを心に描くのは大事だけど、具体的な手段というものを探すこと、これが練習する時の楽しみでもあり、面白味でもあり、かつ必要なことだ。残念なことに音というものや響きの追求に本当の意味で時間をじっくりとかける生徒が少ないのはとても残念だ。心に訴えるのは音そのものなのに。

イメージを強く持った後、顔をしかめてみたり、身体をねじるように悶えて見たり、天を見上げて見たり......それはダメとは言わないが、そうすることで音になっていない表情をカバーしているつもりになってはいけない。

先日クラウス ヘルビッヒ先生の公開レッスンを拝聴した時、こんなことをおっしゃっていた。

「私たち演奏家はもちろん役者の要素も持っていないといけない。でもそれは音、つまり聴覚的な面での役者(つまり音で魅せる)であって、視覚的な効果はそんなにいらない」と。

続く

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2013年10月24日

ドゥヴァイヨンズ ヴィレッジ 第一回 Bコース

Aコースに続いて行なったのが、専門的に音楽を勉強された大人の方対象のグループレッスン。
5名の生徒を2名と3名のグループに分けて、このコースは私が全て担当して開催した。これまた本当に素晴らしい会になった。集まったのは全国津々浦々から。年齢も幅広い。

自分のテクニックに悩んでいたり、教えるあたって基礎を見直したかったり、いらしてくださった理由は様々ながら、社会に出てさまざまな経験をした後、誰にも強制されず、自分の意志でピアノというものに最終的に戻ってきた人たちばかり。それがなんといっても私にとって大きな魅力だ。

いやあ...それにしても個性的な5人が集まった。参加者の皆さん、お互いを見ていて、私は他の人より普通だなぁ、と感じていたら

「間違い」

です。全員見事に個性的でしたよ。笑

私は、各生徒さんにとって今必要だと感じたことに焦点を絞りながらも、5名ともそれぞれ違ったポイントを選ぶようにし、レッスンを聴いたあとは実は自分の教わったことだけではなくたくさんのポイントを学んでいたという流れを心がけた。みなさん他のグループも聴講してくれて、おかげでたくさんの音楽に出会えた模様。

何より嬉しかったのは、初日も二日目も、自然発生的に生徒さん同士でお茶に行ったりお昼を一緒に食べたりしていたらしき事。仲間を大切にすると、自分も幸せになれるはず。この会をきっかけに生徒さんたちの交流が続くなら、本当に嬉しい。かなり手ごたえの強かったBコースも、近いうちにぜひ開催したいと思っている。

みなさん、是非ドゥヴァイヨン ヴィレッジにお越しくださいませ。

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こちらからhttp://www.rikakomurata.com
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2013年10月22日

ドゥヴァイヨンズ ヴィレッジ 第一回 Aコースを開催して

私のサイト上 (www.rikakomurata.com)でご案内しているドゥヴァイヨンズ ヴィレッジを初めて開催してみた。手応えとしては、非常に!!興味深い時間だったと感じた。3名の学生に二日間(午後)集まってもらい、互いのレッスンを聴きながら一緒に考える。初日は私が、二日目はDevoyonが担当し、いろいろと生徒たちに質問を振りながら考えてもらい学んでいく。目的は今持ってきた曲を良くすることではなく、これから役に立つこと、これから一人で学んで行くことができるように、総合的に判断する知識と思考力を養ってもらうことだ。

音楽を楽しみながら学んで欲しいと思っているので、とにかく楽しく面白く、そして有意義な場にしたいと思っていた。最初は少し緊張が見られても割とすぐに打ち解け、生徒さんたちは笑顔が絶えず、突然降り注ぐ質問にも間違いを恐れず考え答えてくれ、その答えで終わりではなく、それを機に互いが試行錯誤する…そんなとても有意義な時間だった。彼らがすぐに集中し音楽に入って行くのが目に見えて、とても興味深かった。

終わった後で生徒が、これまでにこんなに頭を使って聴講したことはない、と笑っていたのが印象的だった。学ぶ材料はゴロゴロ転がっているのに、どうしても自分のレッスン以外から学ぶチャンスを漏らして行っている傾向にある今、仲間とともに学ぶ喜びを大切にしてもらえたらと思う。今回を参考に内容を検討して、次回の募集をしてみたい。

最終日の終わりにみんなでお茶をするという機会を設けたのだが、日曜の夕方はカフェも混んでる混んでる。そんな事情からその日は諦め、数日後に3人と待ち合わせてお茶をするという流れになった。数日あけて会う3人は、本当に表情がほぐれていて生き生きしていて、なんか家族が生まれたような気がほんの少しして、嬉しかった。

二日間を過ごして私が受けた印象は、生徒たちはそれぞれ考えながら勉強してはいるけれど、その考えがうまく総合的にまとまっていない気がした。深くそして建設的に考えられたら良いなという印象だ。情報も多い時代、その得た情報を自分で試行錯誤し、次に役立てられるよう応用できたら最高だ。そんな方法を学ぶ役にこのドゥヴァイヨンズ ヴィレッジが少しでも立てたら嬉しい限りだ。

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お知らせ!!

第2回 ドゥヴァイヨンズ ヴィレッジ間もなく募集開始します!
詳しくは私のサイト FromBerlinからどうぞ
http://www.rikakomurata.com

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2013年2月20日

育てるべきこと (2)思考力

前回の話に引き続き、もう一つ育てるべきは”考える“という能力だ。

レッスンで何かを言われたら、あわてて弾き始めず、先生の言葉の「真意」を考えること。

弾いてくれた音や先生の言葉から生徒自身がレッスンから何を引き出せるかが、
長い目で見たときに大きな違いになると思う。
それが、客観的に物事をみることにつながっていくから。

試行錯誤

という時間は決して無駄でも遠回りでもない。
具体的に書いてみよう。

たとえば、「焦って聴こえるよ」と言われたら、楽譜に”あわてない”と書き込む生徒が多い。
でも、あ、あわてないようにしなきゃ、ではなく、どうして第3者には焦って聴こえるのか、
その理由を探さない限り、その場だけ気を付けてブレーキをかけても何も生み出さない。

たった一つの短い音への、あるいはたったひとつの休符への意識が足りなかっただけで
そう聴こえている場合もあれば、実は弾き方の問題ではなく、
ペダルの踏み方がそう聴こえさえている場合だってあるのだ。


ペダルに関して言えば、ペダルが濁ってるよ、といわれたら、
ペダルをきれいに変えればよいのだろうか?実はペダルが原因ではなく、
指で作り出す音が不明瞭なために、ペダルをいくら上手に変えても、
ぼやっと濁って聴こえている、ということも非常によくある例だ。


右手が固くなってるよ、と言われたら、実は左手が鍵盤にきちんと安定していないからかもしれない。


肘が出てると言われたら、肘を下げれば良いのではない。親指の使い方が原因だったりもする。

練習は曲を弾くことばかりではない。

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2013年2月17日

育てるべきこと (1)耳 

私はベルリンに留学してすぐ、壁にぶつかった。

レッスンで良い例と悪い例を弾いて聴かせてもらっても、違いが聞こえない。

--君が思っている「聴く」は、ただ「聴こえてる」のであって「聴いている」のではない。

その言葉の意味は頭でわかっても、感覚がわからない・・・。焦りが募る。

「下書きの絵を持ってきて、色をつけてくれと言われてもレッスンできない。
自分で考えてくれ」

そう言われ、部屋を追い出された。


聴くってなに?考えるって何?

混乱の日々が始まった。

ただ、1つだけ私が確信していたことがある。それは「追い出された」とは言っても、絶対に私に何らかのヒントを与えたうえで追い出しているだろうということだった。

とりあえず思いついたのはレッスンで弾いてくれた音だ。微妙な違いはわからなくても、あまりにもきたない音ぐらいはわかった。まずはそれをとりあえず真似することから始めた。
まずは汚い音を意識的に出してみる。当時の耳でわかるほど汚い音だから、
相当なものだっただろう。(となりの練習室だった方、すみません。その1)

そして、考えることに入った。何でこう弾くと汚い音が出るんだろう。
たった1つの音を、何度も何度も繰り返し弾いて、ピアノの中を覗き込み、横に鏡をおいては覗き込み...。それでもわからなくてイライラし、そばにあった椅子を思いっきり蹴っ飛ばし… 
(となりの練習室だった方、すみません。その2)

そんな毎日を文字通り「何年も」過ごした。

練習というよりは、ああでもない、こうでもないといじくりまわすと言った方が適当かもしれない。

でも、そうして育てる耳が、最終的には一生の頼りになる。

耳は最大の先生だ。

最近、ほかの方のレッスンを拝見していて、先生方が弾いて見せているそばから弾き始める生徒の多さに驚く。
先生の言葉は聞くのに、言葉が終わったらとにかく弾き出してしまう。
でも実はその言葉、そしてちらっと弾いてくれるその音に、たくさんのヒントが詰まっているのに…。

先生でなくてもいい。誰かが出した音が、うまい下手はおいておき、自分が今まで出したことのない音であれば、それを耳に記憶して家に持ち帰る。できる限り似た音が出るまで真似して、出たと思ったら、どんなテクニックで今の音を再現たのか分析する。

これも、私は数えきれない位の時間を割いて行ったことだ。おこなった、というか今でもそうだ。レッスンで生徒が出した音が良い音であれ、悪い音であれ、どういう打鍵のせいでその音になっているか、家で真似してみて、あーだ、こーだ考えることもたびたびある。 (続く)

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2012年10月 3日

夏の講習会で、今年もたくさんの若い演奏家たちと勉強をさせてもらった。
講習会というのは、普段のベルリンでのレッスンとは少し違う。というのも、講習会や公開レッスンなどは、1回、あるいは数回一緒に時間を過ごすだけで、その後一生会うことのない人もほとんどだと言える。普段にも増して、短い期間で私の思うことを的確に伝え、それを正しい意味で理解をして講習会を後にしてもらうことが私の責任だ。

生徒さんの表情をみながら、与えられた時間の中で同じことをいろんな手段で伝えてみる。言葉を変え、例えを変え、弾いてみたり、質問してみたり・・何かの形でその人の心に響かなければ、表面上直っても、また元に戻ってしまう危険があるから。

最近感じることは、

何かうまくいかない、何かがまずい・・・

とまでは感じている人は多いのだけど、その理由やどうやってこれからそれを解決していくかの手段を、

探している“つもり”

になってしまっている人が多いこと。こういうキャラクターで弾きたいんです。こういう音がほしいな、と思ってるんです。いろいろCDも聴いてみたし・・・。あるいは、ここは何度の和音で、ここは何調になっていて・・・と分析したことを楽譜に書き込む。

それらは、もちろん本当に必要なこと。でも怖いのは、それだけで満足してしまうこと。

理想が知らず知らずと下がってしまうことの恐ろしさだ。

今の時代、ありがたいことに演奏会やコンクールの機会を与えてもらえることが多い。そこから学ぶことは多いと思う。でも同時に、今自分に求められていることにじっくりと向き合って探すという時間をとらず、後回しにしてしまっている人がとても多いのは見ていて苦しい。

それは<時間がない>のではなく、<時間をとろうとしていない>だけのことだということは真摯に受け止めてほしい。

努力に終わりなどないはず。

じっくり、丁寧に・・・。

周りに流されず、自分にとって今必要なことに時間をかける勇気を忘れないでほしいと思う。

積み木を組み立てるのと同じ。最初をしっかりと作ることの大切さがどういうことなのか。一段目が斜めになっていることは気になりながらも、そこから目をそらして長年かけ積み上げた続けた積み木。その行く末を想像すれば、その恐ろしさは簡単にわかるだろう。

そんな思いから日本でもプライベートレッスンシリーズを始めて7年になる。この秋もまた11名からたくさんのことを学ばせてもらうことになっている。

私の人生で出会うことのできる生徒さんの数は限られているけれど、一人でも多くの音楽家の心に、今必要とされていることから目をそらさないことの大切さを伝えたい。

それは音楽に限らず、生きていく上で必要なことだと思うから。

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2011年9月23日

インテンポとメトロノーム 最終回

つまり、インテンポとは、必要な音楽的効果に基づいて伸縮、緩急を繰り返しながら、歩み続ける脈拍のようなもの。その歩みは、呼吸をする肺のように、伸縮はしても、決してぎくしゃくすることはない。

もう一度繰り返すと、 いかに自然になるか、ということを求めて探すのが一番良いのではないだろうか。


そのために、どんな練習ができるかについて考えてみた。

まず、
●メトロノームを使用する場合。

前回の例で、同じ3秒のなかで、間の取り方によって表情が違う、という話をした。そう、同じ3秒というような、ある程度の“枠(わく)”は音楽で非常に大切だ。枠(わく)を無視して、好きなように時間をとってしまうと、テンポも何もない、ということになる。だから、“IN” テンポ、という表現なのかもしれない。
ただ、その枠を小さくとってしまうと、動きようがない。お経のように次々襲ってくるメトロノームの”カチ””カチ“に追われてしまう。

昔、私は何もわからず、メトロノームを鳴らしっぱなしで練習していた。今考えれば、いろいろなところで音楽的な理由から無意識に多少の時間がかかって当然なのに、メトロノームの合図に何としても納めなければいけないと思っていた。いくらがんばっても、カチカチとまくし立てるメトロノームの出すテンポに収まらず、いらいらして、何度機械を投げ飛ばそうとしたことだろうか・・(#^.^#)

というわけで、メトロノームを投げ飛ばさないためにも(違)、メトロノームを使う場合には、大きなふり幅で音を鳴らすようにすると良いだろう。たとえば、エリーゼのために、などであれば1小節単位などで良いだろう。つまり、一小節に一回”カチ“となる程度。先ほどの3秒の話と同じように、その中をどう使うかは演奏者の自由だ。モーツァルトのソナタなんかを想像しても、1小節1回ぐらい鳴らすので良いだろう。
そういう使い方のメトロノームなら、とても良いと思う。

もう一つ、メトロノームのとても良い使い方は、“比較”をする使い方。きれいなところを一生懸命歌って弾いているうちに、テンポがどんどん遅くなったりすることはよくある。でも人間ってすぐに慣れてしまうので、それに気が付かない。だから、ある部分を練習したら、そこをどれぐらいのメトロノームで弾いているか調べて、曲の冒頭など、どこか違うところに戻ってそのメトロノームを鳴らしてみる。そしてテンポがかけ離れていないか調べるわけだ。

ほら、自分では変わってないつもりでも、いつの間にか太ってたりするでしょう・・メトロノームと同じように、体重計で比較してみて、びっくり・・みたいな。指標があるというのはある程度大切だと思う。(説得力あるのかな、この例って・・・汗)

今度は
●メトロノームなしでの練習方法について。

メトロノームなしでも、脈拍の練習はできると思う。むしろ、もっと自然な練習方法かもしれない。それは、自分で歩きながら歌うこと。歩くことで自然な脈のベースを作り、歌いながら、多少時間をかけたいと感じた個所があれば、その部分で足の歩みを少しだけゆったり目にとるわけだ。でも、決して歩みがぎこちなくなったり、止まってはいけない。また、少し緊迫感を作りたいときは、少し早めに歩き、また先ほどの歩みに戻す。

決して軍隊のように歩くのではなく、ふわ、ふわっと柔軟に踊るように歩きながら、どういう歩みをしたら自分が自然に歌えるか探すわけだ。この方がさらに柔軟なテンポの枠づくりをするのに良いと思う。

インテンポ。たったの5文字ですが、奥が深いですね・・・。

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2011年9月 1日

インテンポとメトロノーム  (2)

テンポの話に戻ると、そういうわけで、インテンポだからと言って、メトロノームにあわせて無理にテンポで直進したところで、不自然極まりない。大切なことは

いかに“自然に”響くか

ということ。どんなにうまく作られたロボットでも、やはり本物の人間とは何かが違う。それは不自然だからじゃないのかな。


音楽は言葉と同じで、語っている。生きている。


言葉を話す時のことを考えてみよう。話し方が自然で魅力的なるカギは二つあると思う。

1) イントネーションと
2) 間(ま)

だ。

まずはイントネーション。言葉を話す時、隣り合わせのどんな文字も、決して同じように発音しないだろう。同じように発音した時点で,一気に棒読みになってしまう。逆に強調したいときは、イントネーションを誇張するときがある。

あの人、すぅっっっっごいんだよね!

とかね。笑

そういう激しいイントネーションとなると、周波数のふり幅も大きいわけだし、聴く側も発音する側も、無意識にそれを耳で追う“多少の”時間が必要になる。それが“自然なこと”なのに、無理に時間をかけず同じ調子で行ってしまうと、あわてているように聞こえてしまう。

違う例で説明すると、たとえば、ボールが目の前で心地よく弾んでいるとする。それが突然5メートルぐらいの高さにはずんだら、その動きを追うのに一瞬時間がかかるだろう。人間が目や耳で大きな動きや突然の変化を追うには、それなりの時間がかかるのが当たり前なのだ。

そう考えると、音楽で聴かせたい音やハーモニー、あるいは色などがある時は、大切なことをしゃべる時と同じように、知覚できないほどの<微妙な時間を操る>ことは当然あっていいことだ。メトロノームの問題は、そういった微妙な時間を無視して冷酷に進んでしまうことである。
たとえば、ショパンのソナタ第2番、1楽章。レシッドレシ、と2回続いた後、上に上がるレシ!という部分などまさにそうだろう。メトロノーム的に突っ込んだら、乱暴あるいはヒステリックに聞こえる典型的な例だ。

もう一点は、間(ま)。言葉の話に戻ると、たとえば、すごく長い文章を一気に話したいとき、どうするだろう?そう、話す前に多めの息を吸うだろう。

あるいは、緊張感を帯びた文章をしゃべりたい時はどうすれば良いだろう?たとえば、ひとつひとつの言葉をわざと少し詰めて発音して、その言葉と言葉の“間(ま)”を取る、という方法もある。例を挙げてみよう。

え、そうなの・・?

というセリフがあるとする。

同じ3秒を使ってこの文章を話すとすると、えぇぇぇ、そうなのぉ?というと、なんだか
まったりとするが、<えっ>、と<そうなの>という単語自体をかなり詰めて鋭く発音して、その言葉同士の間の空白を長くとると、同じ3秒の文章でも、まったく違って聞こえるだろう。

えっっっっっっ、 そうなのっっっっっ」! という感じだろうか。

わかるかな?紙面で説明するって難しいですね。(^_^;)

というわけで、イントネーションと間(ま)、そしてタイミングというのは


<音楽が説得力を持つか>


という点で、非常に大切な要素になるわけだ。


(続く)

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2011年8月28日

イン、テンポとメトロノーム ~第1回~

次回はイン、テンポについてお話しします、なんて書いたのは去年の9月。\(゜ロ\)

それから決して放置していたわけではなく(汗)、自分でテーマを提示しておきながら、難しい議題を出してしまい苦戦しておりました・・。今も苦戦中ですが、今できるなりに説明してみようと思います。

イン、テンポ。これはどういう風に捉えたら良いのだろう。一番危険な間違いは、テンポ通り進まなきゃ、とメトロノームにあわせて練習することだ。

こう想像したら、すぐわかるんじゃないかな? アナウンサーが、原稿をメトロノームに合わせて読んでいるとイメージしてみよう。どうだろう?そう、間違いなく・・

お経 

である。(^_^.) チーン

つまり、不自然だ。なぜだろう?それは、機械に作られた時間に基づいているだからじゃないだろうか。音楽は生き物だ。インテンポというのは、その“自然な呼吸”と捉える必要がある。実際は、同じテンポ、つまり同じ脈拍で進んでいる“ように”聴こえればよい。

音楽は多くの場合“幻覚”で成り立っている。どういうことか説明しよう。たとえば、囁く(ささやく)ように弾きたいとする。実際囁くように弾いたら、どうなるだろう?

全然、聴こえません。(^’^)

なので、囁くように聞こえるように、音の質や、その前後との関わり、ぺダリングなど、さまざまなものを用いて、囁いているかのように聴かせているだけだ。

緊張した音楽?いくらおまじないをかけたところで音が緊張するわけがない。緊張、といえば、漢字も示している通りぴーんと“張る”必要がある。休符でも同じ。だから、音なら、音自体を鋭めの打鍵にしたり、あるいは、逆に耳をすまして聴いているかのような緊張を作るために、周りにある音を遠ざけたりという手段だってある。休符なら、その休符に入るタイミングや、突然休符になった感じを作るペダルにするなど、様々だ。

このように、実際囁いているわけでも、緊張しているわけでもなく、あたかも・・・のように聴かせているだけなのである。

(続く)


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2010年9月21日

意味のある練習をする ~テンポ~

だいぶ前になってしまったけれど、以前2つのことを意外と多くの人がないがしろにしてしまっているのが気になると書いた。そのひとつとして前回指遣いの選び方について書いたので、今日はもうひとつの点について書いてみたい。それはテンポ。テンポ設定と言っても良いかもしれない。

初めて曲を勉強するとき、ついつい音を読み始めたくなるかもしれない。でも作曲家が残したものは音だけではない。テンポを含む表示の数々も大きな宝物なはず。楽語を調べないまま演奏している人も多く、この意味は?と聞くと答えられない事がある。“楽語”というと硬い響きになるけれど、作曲家からの大切なメッセージと思えばどうだろう?決してないがしろにできないはず。それを調べずに音を出す事など絶対にあってはいけないと思う。決して忘れないでほしい。

話が脱線してしまったが、テンポについて。テンポって何だろう?それはいつも書いているように音楽にとっての心臓だ。みんなテンポをどうやって決めているのだろう?CDで聴いた時こんなテンポだったから?・・・それは一番まずい返事の一つだと思う。CDは誰かがそう弾いているだけであって作曲家自身でも何でもない。(もちろん作曲家自身のCDもあるけど)。でも意外と耳にする返事なんだよなぁ。この返事(・・;) 

テンポを設定するとはどういうことだろう。それは、最初のテンポを決めるということではない。全体のバランスをみると言う事だ。絵を描く時に画用紙に描く前に大体どういう大きさでここに家を書いて、この辺に山を書くとイメージするだろう。そうじゃないと書いてみてから、あーーー山を書く場所がない、などということになってしまう。

テンポも全く同じ。この曲は途中でテンポが変わる曲なのか。Accel.やrit., meno mosso やpiu mossoもテンポが変わる要素の一つ。どこまで速くするaccelerandoなのか、どこまで遅い必要があるritなのか。 A tempoという表示があるなら、ちゃんとA tempo=元のテンポ、の “元の”テンポと同じになっていなければいけない。ということは元のテンポはどこを指しているのか・・・、そういうものを全てみていくと、大体全体がバランスのとれたテンポの関連が見えてくる。その骨組みが大体みえてから始めて譜読みをするのだ。

もうひとつ大切な事は拍子。たとえば曲の頭にAndanteと書いてあるとする。でもそれは4分の4のAndanteなのか2分の2のAndanteなのかでテンポ感は全く変わってしまう。なぜかわかるかな。
4分の4ということは、心臓の脈になるのは4分音符。でも2分の2は2分音符だ。

たとえば メトロノームで60位だとする。その60が♩=60なのか 二部音符=60なのかで全く速度が違ってくる。

テンポは音楽の柱。でも音楽は呼吸している生き物だから、まっすぐ機械みたいにテンポを刻む事がin tempoではない。in tempoってなんだろう。

メトロノームという機械がある。これはとてもありがたい機械であるが、使い方を間違うととても危険な魔物だ。次回はin tempo、メトロノームの正しい使い方・・・そんな点を考えてみたい。


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2010年5月23日

意味のある練習をする  ~譜読みで注意する事(1)~

最近とても気になる事がある。

“あること”

への意識があまりにも薄いことだ。
意外にもかなり多くの生徒さんに共通しているのだが

それは、

1)指遣いの選び方

2)テンポの選び方。

まず指遣いについて書いてみたい。なんだかとても弾きにくそうにしている様子を見て、

私:どういう指遣いにしてるの?

と聞くと、

生徒:え?書いてある通りですけど。(゜o゜)

というあっけらかんとした返事。まるで私がクイズを出して、“答えならここに書いてありますよ?!”という感じだ。

私:書いてある指遣いで弾いてみてどうだった?良かった?
生徒:良かった?って書いてあるのは良くないんですか?

やはり楽譜に書いてある指遣いは、“答え”だと思っているようだ。

私:他にどんな指遣い試してみたの?
生徒:いえ、これしかやっていません。
私:(・・)シーン

このやりとりは、本当に多い。そしてとても深刻な現実問題だと思う・・。

指使いというのは、何か。それは<表現するための手段>だ。このことを忘れてはいけない。絵を描くなら筆や鉛筆、ペン、クレヨン。物を切るならカッターやナイフ、のこぎり、はさみ。何をするにもその時の用途に合わせて都合の良い大きさや部品を選ぶ。

ピアノを弾く時、もちろん“手”が1つの大きな素材になるわけだけど、その手は千差万別。みんな違う。大きさ、柔らかさ、広さ、長さ、厚み・・・すべて全く同じ手などないだろう。同じ人物でも左右だって多少違うかもしれない。

楽譜に書いてある指遣いには二種類ある。1つは作曲家自身が書いたもの、そしてもう一つは出版社や編集段階で関係者の方が加えているもの。

作曲家自身が書いている場合、音楽的にこうしてほしい・・・という特別なメッセージの場合もある。特にショパンがそうだ。たとえば
右手で降りてくる“ソ-ファ#-ファ♮”という3つの音に5-4-5などという使い方を書くのは彼の典型的な例だ。触れるような、あるいは撫でるようなデリケートさが欲しいときなどに書かれている。そういう特殊な場合を除いては、これが弾き易いであろうと言う参考までに書かれているケースが多い。

指遣いを選ぶ時、一番の目的であるべきことは

1)表現したい音や表情づくりを可能にするもの
そして
2)自分の手にとって自然である事

だと思う。ただ単に”弾き易い“という理由での選び方はもちろん一番まずい。たとえば弾き易いからといって選んだものの、レガートにならない指遣いなどは問題外である。まずは<音楽>が目的であるべきだ。

楽譜に書いてある指使いを試してみる事ももちろん不可欠。ただ、それに加えて<音楽>と<自分の手>の両方にふさわしい指遣いが他にないか、あれこれ試してみるということは、絶対に欠かせない作業だ。

音楽に“1つの答え”はない。この色もきれいだけど、あの色でも良いかもしれない。指遣いも同じで、あれこれ試して自分の手を知る事、自分の手に耳を傾けることを忘れないでほしい。


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2010年3月 1日

意味のある練習をする   ~暗譜(3)最終回

先ほど、

“その道中にある、一つ一つの家の形、門の大きさ、色、あるいは看板・・・そんなこと全部覚えているだろうか。それがなければ到着できないだろうか。もちろんそうではない。つまり、無意識に“いくつかのポイント”に絞って道を覚えているわけだ。“

と書いた。だからと言って、目印以外は覚える必要がないといっているのではない。すべての音が必要不可欠で大切である。ただ、いちいちここが何の音・・何度、何調・・・そんなことを頭で追っていたら間に合わないので、目印を抑える、ということ。さっきの道の例で考えてみよう。道を歩いていて、目印としていた建物ではなくても、今までにあったお店がなくなっていたら、それに気が付くし、だからといって道に迷わない。それは必要なだけ全体が把握できているからだ。あの角に薬屋さんのビルがある。それがわかっていれば良い。何階建てで何色の看板がかかってて・・・そんなところまでは確認しながら歩く必要はない。良い意味でのバランスをつかむことがとても大切なのだ。

またすごく速いパッセージなどでは、一つ一つ頭で音を考える時間はない。ここでは、指の感覚としての記憶が必要になる。(指の記憶) 全部の音は丁寧に聴きとりながら(耳での記憶)同時に指が覚えていると、いちいち頭で考えずに弾くことができる。つまり練習のときに、ゆっくり目のテンポをとり、耳で一つずつ音をキャッチできる癖をつけ、同時に指の感覚を体に入れることが必要になる。目で見て狙い撃ちするのではなく、指から指へ移す感覚だ。

たとえばテレビゲーム。(すぐ例がぶっとんでしまいスミマセン・・・)
昔何回もやったゲームをしばらく遊んでいなかったとする。数年後にもう一度リモコンを握ったら、説明書を読まなくてもなぜか手が覚えてるっていうことないかな。

もっとまともな例を出せって? うーん。(^▽^;)

じゃあ、携帯電話でのショートメッセージとかテレビのリモコンとか、自分の機械なら0から9までの数字をいちいち目で見なくても打てるでしょう?!

指の感覚での記憶力って本当にすごい。触っただけで紙か金属か・・など見なくても判断がつく。
1)指先に脳がある。

そして

2)脳は鍛えなければ育たない。


この2つを忘れないでほしい。

いずれにしても、譜読みの時点での徹底した分析と暗譜,これが確実で最短な譜読みと暗譜の手段だと私は思う。

全体像を見ないまま、音をパラパラと鳴らして譜読みすることほど危険なものはないことを覚えておいてほしい。


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2010年2月12日

意味のある練習をする ~暗譜(2)

前回書いた“目印となるポイント”とは何か。それは例えば調が変わるところ、或いはさっきと同じ形なのに良く見ると、一回目とは少しだけ変化している音など何かが起きているところ。つまりここで大まかなハーモニーや調性のアナリーゼが役立つわけだ。その細かな変化のうえで非常に大切になるのが左手だけ或いは内声の暗譜。これは必要不可欠だ。左手や内声、そういう一瞬脇役に見えるところが、実はハーモニーや調がかわるきっかけ(=キーワード!)になっていることが非常に多いからだ。

先ほどの4種類(目、頭、耳、指)の記憶のうちどれをどう使うかという話だが、まず楽譜上でこの辺でページが変わる、この辺に音が多い・・・などの視覚的な記憶は、ぼんやりとでいいけれど、かなり大切だ。今自分がいる位置が漠然と把握できるうえに、一部で何か起きてしまった時に今の自分の居場所が分かると対処しやすい。(目の記憶

そして、前述のハーモニーが変わるところなど、和声の変化。これは良く誤解しているケースがある。もちろん、ここからC-durになる、ここは5度から6度になる・・・そういった大まかなアナリーゼをしていることは不可欠だ。(頭での記憶)でも、それだけで十分ではない。時々私の生徒さんから、

何が何度に行くとか、ちゃんとわかっているはずなのに通して弾くとわからなくなるんです・・・

という言葉を耳にする。でも、頭でC-durになるとか5度から6度になる、2回目は<ソ>ではなく<ラ>になる・・・なんて思っていても実際弾いているときに間に合わないし、そんなことばかり考えていたら分析を聴いているような演奏になってしまう。楽譜にはちゃんと生徒自身によるアナリーゼが書いてあるのに、実際暗譜になるとだめだというケースも多々見ている。私たちは演奏家を目指している。試験をしているのではない。演奏から“生きた音楽”を求めているわけだから、アナリーゼをそのまま記憶するのではなく、演奏するうえでキャラクターや色に役立てなければ何の意味もない。変化が起きる場所は、その変化を耳で覚える。変化するところでは、何が何度になる・・・ではなく、<キャラクター、表情、色などの変化を耳で覚える>のだ。(耳での記憶

(続く)


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2010年2月 6日

意味のある練習をする  ~暗譜~ (1)

永遠の課題ですねぇ、あんぷって。どうしてまたこう入らないんだろう・・・と最近苦心しております。赤ちゃんの吸収能力から比べたら、脳みその柔らかさの違いは明らかにあるよなぁ・・・。ガーン(* ̄□ ̄*;

しかーし、だからと言ってあきらめるわけにはいかず、私は私なりに、なんとかしなければいけないのであります。(←自分に言い聞かせているって?汗)

そういうわけで、暗譜というものを、できる限り確実にいれるためにいろいろと模索し続けて数年。今思うところをちょっと書いてみたいと思います。

暗譜というのは、目と指、頭、そして耳の4種類をうまく使ってするものだというのが私の今の時点での結論。この“うまく使って”というのがミソ。どれをどう使うかがかなり大事な気がしている。

まず、音楽から離れて暗譜というもののイメージを考え直してみよう。たとえば、道を歩いているとき。自分の家から歩いて10分ほどの行き慣れたお店に行くことを考えてみよう。その道のりというのは、当然慣れた近所だから、行き方はちゃんとわかる。でも、その道中にある、一つ一つの家の形、門の大きさ、色、あるいは看板・・・そんなこと全部覚えているだろうか。それがなければ到着できないだろうか。もちろんそうではない。つまり、無意識に“いくつかのポイント”に絞って道を覚えているわけだ。無意識??? 本当に? そう、それは無意識ではなく、もう慣れているから。でも初めて住んだときには、どうしただろう。一つ一つ見てみよう。

まず、家から10分程度、そして大体の方角として、あっちの方にある店という方向をインプットする。

ポイント1)新しく住んだとき=譜読みの時点 で、全体の構成と大まかな構造(ABAなど)の枠組みを頭にインプットする。

それから、さらに具体的にこの角の薬屋さんを曲がって、二つ目を左で・・といくつかの目印を覚えたはずである。

ポイント2)譜読みの時点 で、すでに目印となるものを意識的に覚えさせていく。

ここで一言:
≪何回も弾いているうちに頭に漠然と入った暗譜ほど、のちのち恐ろしいものはない。≫
↑この歳にして断言!!(=`^´=)エッヘン  
入っているつもり・・・が本番で悪魔となって邪魔しに来るんだな・・・これが。

その“目印となるポイント”とは何か。それは例えば調が変わるところ、或いはさっきと同じ形なのに良く見ると、一回目とは少しだけ変化している音など何かが起きているところ。つまりここで大まかなハーモニーや調性のアナリーゼが役立つわけだ。その細かな変化のうえで非常に大切になるのが左手だけ或いは内声の暗譜。これは必要不可欠だ。左手や内声、そういう一瞬脇役に見えるところが、実はハーモニーや調がかわるきっかけ(キーワード!)になっていることが非常に多いからだ。

続きは次回・・・・


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2009年12月16日

意味のある練習をする ~軽さ(3)

ふたの上と鍵盤でのギャップの話に戻ろう。ふたの上でできたなら、鍵盤でもできるはず。そのためには、こういう練習が良いと思う。

1)まず、ふたの上で素早く軽い打鍵でソファミレドと弾いてみて、感覚を見つける。

2)ふたを開け、ピアノの中央より1オクターヴ高いところのソファミレドの鍵盤を、左手で下までおろす。(写真ではファミレド)
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3)下ろしたまま(つまり鍵盤が動かないようにして)、右手でソファミレドを弾く。―この時、ふたの上での感覚と同じ感覚を鍵盤の底で感じてみる。

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4)感じられたら、左手を放し、普通に弾くが、鍵盤の表面ではなく《底に》意識を集中させて、鍵盤の動きに惑わされず底を<ふたの上の時と同じように感じて>打鍵する。

これを繰り返すと、鍵盤の動きに惑わされず底を打鍵する感覚がわかるのではないだろうか。決して押し込むのではなく、底を“ぽん”とつかむだけ。
また、ふたの上で弾く時とは違い、鍵盤が上に戻ろうとする力があるので、
ふたの上で弾いた時よりも、若干だが<速い>打鍵が必要とされることに気がついたのではないかな。そうでないと、鍵盤からの戻りの力に負けて、浮いた感覚になってしまうのだ。水圧に負けて、足がプールの底につかないようなものである。
軽く弾こうとするためにしていまう大きな間違いの一つは、指先を抜いてしまうこと。そうすることで、鍵盤の戻りに負けて、浮足立ってしまうケースが多い。反対に、指先をしっかりさせ、短く速い打鍵を鍵盤の底に送り込むことが必要だったわけだ。

そして、もうひとつ軽い音の連続を弾く時に、指や体がうわずってくるのを避ける大切なポイントは、耳も指も“メロディックに追うこと”。もう少し詳しく説明してみよう。

軽くしかも速い打鍵をするとき、どちらかというとノンレガートのような打鍵に近くなる。そうすることで、指から指へと移す感覚が切れてしまい、いつもつま先立ちしているような印象になりがちだ。それが不安定さ、つまり”怖い・・”と印象を生むことになる。それを避ける為に、実際はスタッカートで鍵盤から指が離れている場所ですらも、鍵盤の底をメロディックに、つまり横に追ってみよう。そうすることで感覚としては、実際に指が残っていようがスタッカートで切れていようが、先ほどの練習で得た“鍵盤の底のラインを追って弾いている”ように感じられたらかなりの安心感が出るはず。みなさん一緒に探してみましょう!


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2009年10月14日

意味のある練習をする ~軽さ(2)~

さて、前回の”軽さ“についての続き。

答えは、簡単!

鍵盤は下に下がる。

そう、でもこの事、つまり鍵盤が動くということが実は意外といろいろなことを難しく感じさせているのだ。人間の持つ手や足の感覚というのは、動かないものに接しているとすぐにつかめる。地面を歩いたり、コップなど動かないものをつかんだり。でも、目標の物体が動くと、エスカレーターに乗ろうとしたり、氷の上を歩いたり、たんぽぽの綿毛のように、飛んでいるものを捕まえようとしたり・・・想像すれば分かるように、慣れるまで最初のうちは慎重に捕まえないとうまくいかない。

そう、慣れるまで。

これは、日頃の“正しい“訓練で身に着くことだ。エスカレーターも何回も乗れば、考えずにひょいと乗る。でも思っていたより早いエスカレーターだったら、一瞬よろっとする。

正しい訓練とは何だろう。ピアニストの難しさの一つ、それは本番ごとに与えられた楽器に瞬時に反応し、慣れなければいけないということ。
<家なら弾けたのに、このピアノは・・・>
という言い訳を良く耳にするが、そんなこと聴衆には関係ない。

与えられた楽器に瞬時に反応できるよう、普段から意識して練習する必要がある。何に意識して練習するかというと、それは鍵盤のもつ特徴をつかむこと。よく、軽い鍵盤、重い鍵盤、そんな表現をするが、その感覚は鍵盤が上にあがってくる速度の違いから感じるものだ。鍵盤自体の重さではない。普段から、その鍵盤の戻りにどれだけ意識を持って練習しているかが、大きく影響する。

ここで、一つとても大切なことがある。鍵盤の特徴の意識をつかむのは、目ではない。指だ。それも指先の腹のこの部分。


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つまり指の感覚を成長させなければいけない。指というのは、この部分に一番神経が集まっているらしい。ピアノは指から指へ渡して弾く。つまり歩くことと同じ。つま先で歩いたり走ったりしないのと同じように、軽いからと言って指の先っぽで弾くのではなく、“適度な指先の面積は必要になる”ということがわかる。

次回で“軽さ”については最終の予定です!

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2009年10月 1日

意味のある練習をする ~軽さ~(1)

ただでさえ、本番となるとぷるぷる震えてしまうのに、軽くて速いモーツァルトなんかのデリケートなパッセージは、この世のものとは思えないぐらい怖い・・・。という人たちへ。ようこそ♪ 私も同じです。(^-^)

って微笑んでる場合ではなく、なんとかしなければいけない。そう思ってここ何年かいろいろ試してきた結果、少しだけど改善された気がするのでその点を書いてみたい。模索の途中なので、数年後意見が変わっているかもしれないけど、お許しあれ。

いつもの私のやり方で、今回もなぜ“軽い“と怖いのか、から考えてみた。大きすぎないように、重すぎないように・・・そんな思いから、ピアノの鍵盤にしっかり指が座ることができず、体も指も宙ぶらりんに浮いている状態になってしまう。でも実際は音が軽く響けば良いわけで、私自身を軽くしようとしても、体のバランスを失うだけ。で、音はというと、抜けたりぼこっとでたり・・。大体良く考えてみれば、私の体重は最初から決まっているわけだから、体を軽くできるはずはない。
できたらダイエット簡単なのに・・・( ̄o ̄;)ボソッ

音が軽い響きになるためには、ハンマーが弦の近くから短く打鍵する必要がある。大太鼓で小さい音を出したいとき、近くから素早く叩くことを想像すれば、わかるだろう。(近くからでもゆっくり叩いたのでは音が出ない。)
ピアノでは、ハンマーが弦を叩いて音を鳴らすので、近くから短く速い打鍵が必要となる。そのために、私たち演奏側の仕事はというと、鍵盤をできるだけ近くから底にぽんとあてるような打鍵をすれば良い。ここで大切なことは、鍵盤の“底”にあてるということ。上っ面を弾くのではない。

ちょっと違う感覚で試してみよう。ピアノの鍵盤のふたを閉めて、ふたの上で軽く速くしかも弱くソファミレドと弾いてみよう。つまり、近くから短い打鍵で素早く。難しくないでしょう?ではふたを開けてピアノの上で同じことをしてみると?すこっと抜けたり、大きすぎたり、揃わなかったり・・・なんだか弾きにくい。ふたの上の時ほど居心地が良くないんじゃないかな。

ふたの上で弾くのと鍵盤で弾く違いは何?

続きは次回に!


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2009年9月 6日

意味のある練習をする ~連打~

連打というだけで、反射的に“弾けない”と構えてしまう人が多いと感じる。でも、作曲家は弾けないものを書くはずはないわけだから、まずはどうにかして連打さんと仲良くなれないか、あきらめてしまわう前に手を差し伸べてみよう!

連打とは、なんだろう。とりあえず、連打が出てきたら、必死で穴が開かないように繰り返し打鍵しようとするがあまり、その部分だけ音楽がなくなってしまうケースをよく耳にする。でも本来、連打はもちろん音楽の一部である上、“効果”として使われていることが多い。ある部分が連打になることで生み出される音楽的効果は、緊張、恐怖感、喜び、高まり、ユーモア、震え、鐘の音、鳴き声・・・・・感情から情景まで本当にいろいろなものがある。それがわかってくると、連打にもたくさんの性格があり、それを探すことが本当に面白くなってくる。私は連打を愛しているので(笑)、一人でも多くの人に、連打への恐怖感をなくしてほしいと思っている。

解決法を探す前に、連打を失敗するということはどういうことなのか、まず考えてみよう。連打とは言葉通り、同じ音を繰り返し弾くこと。ところがドドドドドと隙間なくなる代わりに、うまくいかない場合は、ドードッド・・・ドドドドーーーとモールス信号のようになってしまう。

うまくいくときと行かないとき、いったい何が違うのだろうか。

バスケットボールでのドリブルを考えてみよう。

私の愛用クッション君に一役買ってもらうことにした。バスケットボール役をしてもらおうと思って写真を撮ったのだけど、あまり嬉しくなさそうなのは、気のせいだろうか。


ボールを腰ぐらいの高さまでバウンドさせてゆっくりドリブルするのは難しくない。でも、膝から下ぐらいの高さで繰り返しドリブルをして、といわれると急に難しくなる。なぜだろう。

ドリブルというのはボールがあがってきたらそれを柔軟性のある手(!)で受け止めてまた地面へとエネルギーを送り返すことで生まれる。腰の高さでドリブルをする場合、ボールが上がってくる時間が十分あるわけだ。

ここで柔軟性のある手というのは、とても大切なこと。手のひらでぱちんっ!とボールを受け止めるとイタイイタイ!


でも逆に指だけで構えていると、バスケットボールの固さで指が折れてしまいそう。ドリブルでは、手のひらで受け止めているようで、実は手のひらの支えがありながら、指もボールの勢いを吸収する準備ができていて、“つかむ”ようにしてボールを送り返しているのだ。


ところが、ひざ下の場合、手の使い方は同じく柔軟性が必要になるのだけど、地面から膝までボールが上がってくる距離が短いので、膝のところまで来たら即座に受け止めてまた送り返す必要がある。地面と膝の間でボールが何度もすぐに戻ってきてしまうから、焦ってしまう。そうなると、地面に早く叩き戻すことに必死になって、ボールが膝のところに<来る前に>たたきおろしてしまうことで、どんどんドリブルが低くなってボールが止まってしまうというのが良くあるパターンだろう。つまり、ボールが膝のところまであがる間がなく、手が下にボールを下ろしてしまうからだ。

連打の場合も同じである。“連打”という難しいという先入観から、鍵盤が上がってくる時間を与えずに、-早く打鍵しなきゃ-と思ってしまい、とにかく鍵盤を早く下ろす事に必死になり、結果として音が鳴らなくなってしまう。


ポイント1)
鍵盤が上がってくる時間が必要である。→“鍵盤の戻り”を指先で意識しよう。基本的に、連打を失敗するケースは、打鍵が“速すぎる”場合が多い。鍵盤が戻ってきたら次の打鍵をしよう!
その時、大切なことは、鍵盤をすばやく上げないと、次の音を弾くことができないということ。鍵盤を早く上げる、つまり、そのためには“打鍵の後すぐに力を抜く”ということが大切になる。力を入れっぱなしでは、鍵盤は上がることができないことを忘れないでほしい。

連打の指使いは、時と場合によるが
A) ずっと同じ指で弾く、
あるいは
B) 指を入れ替えて3-2-1-3-2-1などと使う場合

の二つがある。

同じ指で弾く場合の難しさは、手が痙攣のようになり、
固まって、速い打鍵ができないことである。

それは、指先の微妙なアクションを使えていないことが原因だろう。指先を棒のようにしたまま、素早く下ろそうと思っても、手がつっぱってきてしまう。それは、指を固めることで、無意識に本来の指を使う向きとは反対に、向こう側に押したような打鍵になってしまうためだ。

見えないほど少しであるが、第一関節から先の部分で“ほんの少し”つかむようにしていれば、指が本来持つ自然な動き方向、つまり内側へと使うことになるので、使いやすい。この時、部品をできるだけ小さくするのがコツ。腕や、手首などいろんなところが参加して連打しようとしても、部品が大きすぎて、大きな棒で連打しようとしているようなもので遅くなってしまう。部品を小さくして、第一関節から先を微妙に使えるのに一番良い方法は、

ポイント2)
第一関節のところを親指で少し支える弾き方だ。
こうすることで、第一関節から先が使いやすくなる。是非試してみてほしい。


また指を変えて弾く場合。難しさの一つは、狭い面積で指をすばやく入れ替えなければならないことである。
まず、ミレドミレド・・・と素早く繰り返して右手の3-2-1-3-2-1で弾いてみよう。これは難しくないだろう。前の指が弾いたあと鍵盤が上がり、それから次の指を弾く、という指の受け渡しが無意識にできているからだ。これと同じことを、一つの鍵盤の上ですれば良い。この時大切なことは、

ポイント3)
どの指も、鍵盤上の同じ“一点”を打鍵するということ

つまりどの指も鍵盤の同じ場所を打鍵するということだ。こうすることで、3つの指が一点に集まるので、狭い鍵盤でも弾きやすくなる。決して鍵盤の上で、鍵盤を掃除するかのように指を滑らせてしまわないよう気をつけよう。

また3-2-1で弾く場合、
3と2は手前に、親指は3と2の方へ向けて打鍵する。そろばんを打つ時と同じだ。
こうすることで、3から2へ、2から1へ、そして1から2へと渡り、小さな小さな円を描くような弾き方になる。

と、以前生徒に行ったら、あのぉ・・・そろばんは、知りません・・。といわれ、
年代の差に愕然とした・・・(-。-;)。でも、そういわず、一度そろばん打ってみてくださいな。3,2は手前、1は向こうという意味がすぐわかると思いますよ。笑

これで、連打を少しでも好きになってくれてたら嬉しいんだけど・・。


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2009年4月23日

意味のある練習を  ~譜読み~

体というものは、無意識のうちにどれだけ沢山のことを覚えこんでいるものか。驚かされることがある。中学や高校でテストの前に、あれこれ頭に詰め込もうとがんばって覚えられなかったはずなのに、(汗)普段の生活となると、覚えようとしていなくても、いつの間にか習慣となり、体が覚えていたりすることがある。そして一度体に入ったものを抜くことは、思いのほか難しい。

たとえば、家の中である時、模様替えをし、物の置き場所を変えたとする。私の場合、変えたことは重々あたまでは分かっているのに、以前にそれが置いてあった部屋に無意識に探しにいき、それから、あ、また間違えた、とくるっと向きを変えたことが何度あることだろうか。

食器の場所を自分で変えたにも関わらず、何度同じ引出しをあけてみて、あ、ここじゃないんだった・・・と自分自身にあきれたことか。

そういう経験ってみんなあるんじゃないかな・・・というか、あって欲しい。(^▽^;)
もし私だけなら・・・

え、ぼけ? (* ̄□ ̄*;

譜読みをするときというのは、まっさらな自分の中に新しいものを入れる瞬間。このやり方を間違えると、後々とても苦しいことになる。

家具を組み立てて行って、最初をちゃんと作っていなかったために、なんと出来てみたら
斜めになっている!!という経験がある人もいるだろう。

ピサの斜塔のように、それを芸術としておいておくわけではないので、それを直さなければいけない。でも、一度作ってしまうと、少し横から押してみたり、ねじを締めてみたり、なんとか形をごまかせないかとしてみても無駄。最初からすべてやり直しなことは、容易に想像できるだろう。

譜読みをすると時に危険なことは、目的がないまますぐに音を出してしまうこと。たくさんの理由がある。

楽譜に体を乗り出して、非常に不自然な姿勢で音を探る。その結果、あちこちに無理がかかった不自然な手や体の状態を無意識に覚えてしまう。

そして、難しそうなところを、なぜ難しいか、どういう練習をすれば意味があるのかを考えずに、むやみに何回も弾いてしまうことで、まず

あ、ここ難しい (・_・;)

と頭と体両方が覚えてしまう。これは本当に厄介である。本番で緊張する時ってどうなるかというと、まずその難しいと思っていた場所が、“あ・・こわい”という感情に変化する。なぜか本番になると、特に難しいと自分が苦手にしている部分こそが、ぐわぁ・・・と大きく頭のなかを占領し、反対に自信はというと、しゅぅぅっと小さくなり、不安ばかりが増大するからだ。

練習のとき大切なことは、
あ、大丈夫、ここも弾ける、という肯定的な感覚を体に覚えさせていくこと。よし、無理していない、ちゃんと緩んでるぞ、お、以外と弾けるという安心感。

それを入れていくためには、譜読みの段階で苦手意識をできる限り減らすようにしなければいけない。そのためにも、難しそうな場所があったら、まずそこから取りかかる。なんで難しいのかよく考え、それがわかったら、そのためにどんな練習が有効かを考え、そして初めてピアノに向かう。

そして、1度に4小節など弾かず、少しずつ少しずつ、ゆっくりから徹底的な練習。その部分が、よし大丈夫という段階までできたら、少しテンポを上げてみる。当然、さっきよりテンポが上がったことで弾きにくく感じるだろうから、また安心できるテンポに戻す。そしてまたテンポを上げてみる。そういう地道な練習が必要だ。焦って譜読みすることで、すぐに“弾ける”ようになったかもしれないけれど、同時に体か脳のどこかに怖さ、不自然さが記憶されていたら、いずれすべてやり直しになってしまうということを常に念頭に置いてほしい。

このように、丁寧に積み上げることで、曲への苦手意識がかなり減ってくる。基礎部分をちゃんと練習したから。緊張というのは、気持の問題。ちゃんと練習したから、そう自分に言い聞かせられることは、緊張を支配するのに最も必要なことの一つだ。


なぁんて、偉そうなことを書きながら、今日もフォークを求めて、違う引出しをあけ、
あ、間違った (・_・)

とつぶやいていた私です。


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2009年3月17日

今日のつぶやき

ピアノは
たったひとりで
オーケストラを作ることができる唯一の楽器。

2009年2月28日

光る ということ

先日、フランスで国際コンクールの審査をさせていただく機会があった。つい数年前まで、目の前の舞台の上で悪戦苦闘する参加者側に自分自身がいたことを考えると、舞台上での演奏者の気持ちと熱意が痛いほどわかり、気を引き締めて真摯な気持ちで臨んだ。

舞台上と審査席。距離にすると5メートルもない場所の違いだったが、座る場所が違うだけで、非常にさまざまなことを考えさせられる機会となった。

これまで、自分が参加していた時、なんでこの演奏でだめだったんだろうと思うこともあったが、逆になんでこんな演奏で通ったんだ? という場合も多々あった。よく弾けたと思ったらだめで、失敗したと思ったら褒められた・・。こんな経験をした人は結構いるのではないかな。私はよくそれで苦しんでいた。

あるいは、コンクールの後で審査委員に話を聞かせてもらい、良かったんだけどねぇ・・・といわれ、良かったのに何で通らないの!と勝手に腹を立てたこともあった。そういう人も少なからずいるだろう。

もちろん、答えはないけれど、こういった今までの私の疑問が、今回の経験でうーん、なるほど・・・と少し納得いった部分がある。そういう点について、書いてみたい。

今回のコンクールは一次予選形式。つまり参加者がそれぞれ30分ずつ弾き、それで結果が出るというもの。2次予選などはない。審査には、コンクールによってさまざまなやり方がある。すべての参加者に各審査委員が20点満点などで点数をつけるもの、すべてを聴いてから、良かったと思った10名の名前をあげ(順列は付けず)、ある程度絞った参加者から話し合うもの。あるいは1位、2位、3位にしたい人の名前を挙げるだけのもの・・・。

その形態によって、でてくる結果も少なからず変わるであろう。点数をつけるとなると、減点のしづらい、無難な者が通る場合もあるかもしれない。今回の審査方法は残念ながら公開できないけれど、ただ今回のように一次予選のみで、比較的長めの時間聴かせていただく場合、私に起きた現象は

自然と、<光るもの>に惹かれていく・・・・

というものだった。無難な“よくできた“演奏なら、ピアニストは山のようにいるわけだから、これ以上必要ない。素晴らしい録音もいくらでもあるからCDを聴けば良いことになる。でも、この人にしかできない何か光ったものが一瞬でも見えたなら、それを評価したいと望むようになった。たとえば、

‐この楽器をここまで美しくならした人はいない,という美しい音。
‐難しいところは弾きかねているけれど、このゆっくりの部分で、こんなにも、私の心を感動させてくれた、という演奏。
‐体からみなぎるエネルギーで音楽が<湧き出る>瞬間が見えたひと。
‐息をのむような美しい弱音の世界で、会場が凍りつく瞬間を垣間見た演奏

など、何でも良い、30分ずっと素晴らしく居続けなくても、一瞬なにかきらっと光ったとしたら、それは宝ものだ。砂の中から、きらっと光った一粒の宝石は本当に美しい。その人にしかできないもの、それこそが審査席からは何よりも魅力に見えた。

もちろん、だからと言って他のところが傷だらけでは仕方がない、コンクールだから。でも、光るものが強ければ、多少の傷は、本当に気にならないものだった。

私がコンクールに参加していた頃、たとえば、大きく傷をしてしまった場合、何でこんな演奏で通ったんだろう、と思ったこともあった。でも、傷を作ったからこそ、残りの部分で何とかしたいと、必死で自分の音楽を表現しようとしていたのかもしれない。

または、ふぅ、うまくいった・・・と思ったとき。それは傷こそなかったかもしれないが、光もなかったのかもしれない・・と今となっては思う。

自分にしかできないもの。それを見つめ直すことは決して悪くないだろう。体が小さくて、どうしても体格のがっちりした男性のような音が出なくても、あるいは、手が小さくて、大きな和音が聞かせられなくても、あるいは、難しいところが速くばりばり弾けなくても・・・・でも自分だからこそできるものがあるはずだ。自分にしかできないもの。それを一度考えてみると良いかもしれない。悪いところを直すことばかりが練習でなく、自分の長所を見つめ直し、その長所をより磨き輝かせるということが、見落としがちな、でも非常に重要な要素だという気がした。


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2009年1月21日

生きた音楽とは (5) 最終回

(4)まで書いてから、ずいぶん日数があいてしまった・・・。しかも気づいてみれば、年まで変わってしまった。 (@_@;)汗

<生きた音楽>と題して、どのように音楽に命を与えられるかということを、これまで脈、緊張、色、ハーモニー、ペダルなどを通して見てきた。

そして最終回、もうひとつ意外と無意識になりそうなことについて書いてみたい。
それは、

“戻る”美しさ。

Crescendo、accelerando, やクライマックスへの盛り上がり・・・そういったいわゆる“プラス”方向の変化については、良く意識して演奏する人は多い。ここを歌いたいとか、どういう風に盛り上げたいとか。

ところが、そういったプラス方向への盛り上がりに対し、diminuendo,ritardando・・・など、”戻り” 方向の処理を繊細な意識を持って作っているケースはとても少ない。これらは、盛り上がりを作るのと同じ、あるいはそれ以上といっても良いぐらい演奏において大切な効果を与える。どのようにdiminuendoやritardandoを導くか、あるいは、どのようにペダルを減らしていくか、どのようにフレーズを閉じるか。このような、”戻り方“に細かな意識を払って作ることで、演奏に信じられないほど

美しい緊張感

繊細さ
を与えることができる。

別の例で説明してみよう。たとえば、この世にひとつしかない、ものすごく高価で美しい、手も触れるのも恐れ多いようなグラスがあったとしよう。それを、誰かが自分の前に持ってきてくれて、あなたに見せるために、目の前のテーブルに、慎重にそぉぉぉぉっと、そぉぉぉぉっと丁寧に置こうとしているところをイメージしてみよう。

どうだろう、そこに<息をのむような>瞬間が生まれるのが想像できるのではないだろうか。テーブルに“どん”と置いたのでは、繊細さも何もない。

音楽でも同じ、このような息をのむような美しい瞬間は、聴く人の心を魅了する。
先にあげたもののほか、PP、休符、たった一音の長い音など、楽譜に潜む<美>を少しでも多く見つけ出し、そこに演奏者自身の色を与え、自分しかできない色で、<繊細な>音楽を作っていってほしい。


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2008年10月28日

生きた音楽とは (4)

そして、もうひとつ大事なのがハーモニー。ハ長調だと思ってたら急に違う音が入って、それをきっかけにホ短調になったとする。これも、まっすぐ進むと思っている音楽が、向きを変えて右の方にいったようなものだから、音楽に変化が与えられることになる。ハーモニーの変化を追って音楽を見ることは、音楽を組み立てる上での大きなヒントであり音楽に命を吹き込むうえで不可欠なことである。

また、長い音がある時や休符など、耳を澄ますようにして聴くと、これもまたなんとも言えない緊張を作り出す。なぜかというと、人間が耳を澄まして聴くときは、ほかの周りの雑音をできるだけ除外するように聴くだろう。犬だって耳を澄ます時、それまでへぇへぇ言っていた舌をすっと引っ込めて、瞬間的に口を閉じて耳を澄ます。(少なくともうちの犬はそうでした。笑)つまり、弾き手がその音や休符に全神経を注ぐことで、聴衆もその瞬間その音へ集中するからだ。

挙げてみたらキリがない。まだまだ沢山の宝物が楽譜に潜んでいるに違いない。それらすべてを見逃さず、音楽の生命、表情の一員にできたら、どんなに素晴らしいだろう。

(続く)


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2008年10月16日

生きた音楽とは (3)

ペダルも忘れてはいけない。ペダルの深さや長さの加減でも、音楽に表情をつける大きな役割になるだろう。ペダルには、本当にたくさんの踏み方がある。ところでペダルの役割は何だろう?

その一つは、色を作ること。

音を残すためだけではない。音に艶や色、響き・・・など表情をつけるためにペダルは存在するのだ。演奏家の持つ音楽の色、つまり音色が多いか少ないかという印象は、指で作る音だけではなく、自分の足でどれだけ<様々な深さ><様々な種類>のペダルを作れるかにも大きく影響してくるのだ。
自分に音色が少ないと感じている人。ペダルという可能性があることを忘れていないだろうか。そして、ペダルも、真ん中のペダルはまれだとしても、弱音ペダルと普通のペダル、少なくとも2種類ある。この多彩な深さの組み合わせで、実は本当に何色もの色ができることを決して忘れないでほしい。ついでに加えておくと、弱音ペダルは何のため?

これも、色のため。

つやを曇らせたり、柔らかくしたり、大きな音でも、鈍いフォルテが欲しかったりしたら、もちろん使って良い。

ピアニッシモという表示をみたら、つまり、弱くするために使う・・・これだけは絶対に避けてほしい。

(続く)

2008年10月 8日

生きた音楽とは (2)

では、音楽に緊張(変化)を与えるにはどのような方法があるだろうか。
緊張というのは、絶え間ない脈の歩みに、予想外のことが起きると感じられる。
(もちろん、弾いている本人に予想外なことが起きたらだめなので(笑)予想外のことが起きたように聴かせるわけだけど。)
聴き手にとって予想外のことを起こすために、音楽の中にある様々な要素を見逃さず、使っていかなければいけない。

たとえば、Subito Forte、Subito Pianoなどの突然の強弱の変化、あるいはスフォルツァンドやアクセント…これらは思わぬところに強調される音が来ることで、脈に変化が起こる。なにか驚いた時に、脈が一瞬速くなるようなものと言っても良いかもしれない。そう考えると、必要以上の不自然なスフォルツァンドは、驚きすぎて心臓が止まってしまうように、音楽を止めてしまうというのもわかるだろう。

休符はどうだろう。まず、休符は<お休み>ではない。私は生徒に休符も音符の一つだと思ってほしいと、いつも口を酸っぱくして言っている。休符には音楽にふと沈黙を作るだけでなく、

<呼吸>

という、音楽が生きる上で欠かせない役割を果たしているからだ。
文章を息継ぎをせずに読まれたら、聞いている方だって苦しい。音楽も同じ、句読点や、息継ぎが必要なのだ。その息も、落ち着いている時の吸い方と、興奮しているときの吸い方、溜息、驚いた時の息使い・・・それぞれ全然ちがうのがわかるだろう。休符にも、人間の息と同じだけの表情があるはずだ。
この通り、休符でも、それまでの脈や表情にさまざまな変化を与えることができる。
他には何があるだろうか。次回また考えてみたい。

(続く)


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2008年10月 7日

生きた音楽とは  (1)

私たち演奏家の役割は、紙の上にある音符に命を吹き込むことだ。
命のあるもの、つまり、

<音楽が生きる>

ということは、どういうことだろう。
生きているものは、呼吸をする。動物でも、植物でも皆そうだろう。
音楽が呼吸をしない限り、音を並べても音楽は死んでしまう。

音楽が呼吸をするために必要な要素の一つは、緊張の伸縮だ。そのことについて数回にわたって書いてみたい。

音楽には、まず何よりも、動物や植物のように、決して途切れることのない

<脈の歩み>

がなければいけない。その脈の中に、緊張と弛緩がおりまざることで、音楽が呼吸をしていく。

緊張がずっと同じ状態の音楽は、なにも特別な出来事が起きず続いていくドラマや映画を見ていることを想像すれば、退屈してしまうことは、容易にわかるだろう。つまり、緊張とは、

何かの<変化>が起こること

で生まれるのだ。

(続く)

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2008年8月27日

周りを大切に

たとえば、楽譜にフォルテがあって、その少し後に、フォルティッシモ、更には fffが続く場所があったとする。

―クライマックスのfffとその前のffにあんまり差がないね・・・。

とアドヴァイスしてみると、99%の生徒は、fffをもう一段階出そうとこれでもかと頑張ってみる。可哀そうに、ピアノさん。もう出ないよぉ、と苦しそうな音になっている。で、生徒の方は、

―先生、このピアノ鳴らないですね。 
と、のたまう。

または、スフォルツァンド。

―もう少しスフォルツァンドらしく、その音がはっきりと際立つようにできると良いね。

とのアドヴァイスには、エイっとその音を鋭く打鍵してみてくれるけど、どうしても硬くなったり大き過ぎたりして、やっぱり首をかしげている。

もうひとつ。
―ここから、生き生きと動き出す感じがもっと欲しいな。

とアドヴァイスしてもると、さらに生き生きと体を動かして演奏したり、テンポが知らないうちに速くなったりしてしまう。

何が間違ってる??

上の例を良くみてみると、すべて
-fffをff ”より”も大きく聴こえさせたい
-スフォルツァンドが、”他の音より”ぽんと目立っていたい。
-ここから”今までより”生き生きさせたい。

と、○○より大きく

など、他と<比較>しての効果だ。つまり、前後を<比べて>始めて現れる効果なわけだから、その音だけ頑張っていても仕方がない。ちょっとピアノから離れた例を挙げてみよう。

たとえば、紙に描いた絵。その中にある“花”一輪を目立たせたいとする。その場合、どんな色にする?と聞いてみると、

赤く塗る!!

と返事がきた。 でも、ほんと?

良く考えてみて。画用紙が、赤かもしれないよね?

あるいは、別の例を見てみよう。

人がたくさんいるところで、目立つためにはどうする? ジャンプしながら手を振る?
でも、周りみんなが同じことしてたら?

さらに、もう一つ。
演奏会で、演奏が始まる直前に、お客さんがホールに入って来て座ったら、すっごく目立ってしまう。でも、コンサートの休憩中に入って来て座っても何も目立たない。

どうして?


それは、演奏が始まる直前の場合、みんなが座ってじっとしているのに、一人だけ動いて入って来るから目立ってしまう。でも休憩のときは、みんな好きに動いたりしゃべったりしてるから入ってきても全然目立たない。

これで何を伝えたいかわかってもらえるだろうか。
あるものを際立たせたい場合、その音をがんばる方法以外に、周りを調整するという方法があるということだ。周りを下げれば、浮き立つかもしれない。直前のキャラクターが静かであれば、ここから生き生き聞こえるかもしれない。
スフォルツァンドがうまく際立っていないなら、その前の音が大きすぎるんじゃないかな。
fffが足りないなら、その前のffが大きすぎるとか。
ここから生き生きして聞こえないのは、その前がすでに生き生きしてしまってるからじゃない??

絵と同じで、いつも一歩さがって前後とのバランスをいつも見るようにしてほしい。
簡単なことのようで、意外とおろそかになっていないかな。

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2008年6月24日

親指 (2)

以前、親指について書いたことがあった。太くて短いにもかかわらず非常に大切で、使い方がかなり難しい。だけど、親指の使い方って、あの時もそうだったけど、意外に意識的に勉強されていないと今も感じる。

でも私はこの親指殿を

<おぬし、侮れ(あなどれ)ぬヤツめ>・・ヽ(`○´)/


と思っているので、(←勝手な闘争心)今回は、普段あまり意識していない親指の使い方を書いてみたい。

親指って、黒鍵を弾く時と白鍵を弾く時、実は<第一関節から先で違う使い方をする>って意識したことある人はどれぐらいいるだろう。

黒鍵を弾く時は、誰でも自然と鍵盤に対して角度が斜めに入るように親指を置く。つまり第一関節から先は、特に内側に曲げることなく、指を“ほぼ”まっすぐに近い状態で使っている。この理由は、黒鍵の鍵盤自体の幅が狭いことを考えると、自然なことだ。

ところが、白鍵で同じ様に使うと、やってみればわかるが、隣の鍵盤も一緒に弾いてしまうことになる。そのために、白鍵を親指で弾く場合には、第一関節から先を内側に曲げたうえで、少し立て気味にし、指先より少しずれた角(かど)の部分を使ってひかなければいけない。

たとえば右手の親指で、半音階で上がってみればすぐわかる。ド、ド#、レ、レ#、ミと
弾いてよう。すべての音を親指を黒鍵を弾く時の形のまま弾こうとすると、非常にもたもたするうえに白鍵の時、隣りの音を触ってしまうだろう。

上記に説明した黒鍵での<親指の第一関節から先>の使い方を“横”、白鍵での使い方を"縦”と表現すると、ド、ド#、レ、レ#、ミを弾く時は、縦-横-縦-横-縦と使うことになり、これをうまく使うと、かなり素早く移動できる。

ついでに書いておくと、オクターヴでの音階などをすばやく弾くのが苦手な人の場合、ほとんどが親指が原因のことが多い。オクターヴの早い音階は、まず親指だけを練習するのが必須だ。その時次の二つのことに気をつけてほしい。

1) 親指の”縦”、”横”を意識的に使う。
2) その際、黒鍵と白鍵のできるだけ境目のあたりを弾く。先ほどのド、ド#、レ、レ#、ミで、右手の場合、白鍵のド、レ、ミを弾く時、黒鍵に近いところを弾くようにすると速い移動ができる。つまり、できる限り親指が鍵盤の奥に行ったり手前に来たり・・・と移動範囲が大きくならないようにする。

むむむ・・・親指殿、奥が深いな、おぬし。(-o-)


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2008年6月11日

画用紙からはみ出したクレヨンの絵、きれいに書かれた鉛筆の下書き

レッスンってなんだろう。
私の役割ってなんだろう。そんなことをふと考える時期がある。

私が、レッスンで生徒さんから持ってきてもらいたいものは、もしこの2つの絵に例えると、どちらだろうか。

1)画用紙にきれいに描かれた下書きの絵。

それとも、

2)勢いあまって、画用紙からはみ出してしまっている、クレヨンの絵。

それは、 2)である。

でも実際は、きちんと整えられた下書きの絵を持ってきて、・・これにきれいに色をつけてください・・・とばかりに、レッスンで遠慮がちに弾いてくれる人が意外と多い。もちろん、それはそれで、色をつければ、絵になるだろう。

でも、それは”私”の絵でしかない。

私が欲しいのは生徒さん自身から出てくる絵。はみ出していても良い、斬新でも良い。整っていなくても良い。

伝えたい何かさえあれば。

もちろん、何を書いても良いというわけではない。音楽には、作曲家という生みの親がいる。私たちは演奏家の使命は、作曲家が紙の上に残した音に、命を吹き込むこと。

だから、好きなことをして良いというわけではない。生みの親が、"家“をテーマとしていたら、それは家でなければいけない。木の家なら木の家でなければいけない。でも、それさえ守っていれば、そこから、私たちの想像力をたくさん取り交ぜることができるのだ。

どんな大きさの家? どんな形?
丘の上にある? 森の中にある? それとも、都会?
お昼の家の様子? それとも夜? 
その家には、誰か住んでるの? 

・・・それは、私たちが想像をふくらませて良い場所なのだ。それこそが、個性。
個性、というものを“好きなように演奏して良い”・・と勘違いしている場合もある。でも、それは違う。家は家でなければいけない。つまり、楽譜に書いてあることには、忠実にならなければいけない。

その上で、自分で精いっぱい想像力をはたらかせて、自分にしか書けない絵を、自分にしかできない音楽を持ってきてほしい。そして、私は1観客の目、耳として、こうしたほうがもっと伝わるかもね、と、一緒に考えて、より作品をその子の伝えたいものに近づけることができたら、一番幸せだと思っている。

ちょっとぐらい、はみ出していても良い。だから、<自分にしか描けない絵>を持ってきてもらいたい・・。


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2008年5月18日

プールから学ぶ (3)  硬い音

このテーマは、ずいぶん長いこと考えている。いまだにはっきりとした結論が出ていないのだけど、模索途中として書いてみたい。

音が“硬い”・・・と表現するけれど、

みなさん、どうしたらピアノって 固い音が出るんでしょう・・。(・_・;)

私も答えがわかるわけではなく、目下考えているところです、ハイ。汗
指を固めているから・・という説明も聞くけど、実際は音はハンマーが弦を叩いて鳴るわけで、どんな風に打鍵しようが、音を出すのはハンマーだから、指を固くしなければ良い・・という問題ではない気がする。

今の時点で、考えているのは、プールでの飛び込み。(←相変わらず、ぶっ飛んだ例だけど)
私の小学校の先生は、良く生徒をもちあげて、プールに放り込んでいた。(いいのか?笑)
私も放り投げられたのだけど、その時、おなかや背中から水面に落ちた時の痛いこと!!!
バッチーン!!!という音とともに、めちゃめちゃ痛い。

高いところから飛び込みをするのを見たことがあるけど、その場合誰もおなかや背中から水に入らない。指先から、できるだけ細い面積で水に入っていく。

話を変えて、拍手をする時。誰も、両手の手のひら同士をまっ平らにして、左右合わせてはたたかないだろう。そうすると、てのひらが一気に痛くなる。少し手のひらを丸めるようにしてたたく。

この3つの例から思ったことは、平面と平面が面積が広くあたると痛いということ。それは、二つの平面がぶつかり合ってしまうから。

ハンマーは柔らかいもので包まれている。でも、たくさん弾けば弾くほど、ハンマーがいつもあたる弦の場所がへこんできて、溝のようになる。その部分は、かなり硬い<踏み固められた土>のようになっていると思う。そこに、ばんっと金属の弦があたれば、相当固い音が出るのは想像できる。

だから、打鍵を必要以上に早くすると、平面同士が衝突して、硬い音が出ているんじゃないだろうか・・・と思っている。それを避けるために、できる限り必要な点だけを弦に当てる。つまり、ハンマーが弦に当たったら、すぐに解放しないといけない。そのためには、たとえ大きな音でも、微妙なコントロールが必要になる。いつもブログで書いている指先でのコントロール。
だから、ある意味、指を固くしない・・・という表現も間違いではない気がする。

たとえば古い弾きつぶされた楽器。たまに、いくらコントロールしてもどうしても金属音になってしまう時がある。それは、
ハンマーの溝が踏み固められて、かっちかちになってるんじゃないだろうか。それと同時に、必要以上に押し込む打鍵をすると、ハンマーに弦が食い込むから、響きが止まってしまうというのももちろんあると思うけど。

うーん、今の私に考えられるのはこんな感じ。
なにかほかの意見があったら是非知りたいところだな・・・。


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2008年3月16日

プールから学ぶ?! (2)  ミニ・ビート板

弱く深みのある和音で曲を始める・・・とくに緊張しているときなど、本当に難しい。
ぼかんと思わぬ大きな音が出てしまったり、逆に鳴り損ねてしまったり。誰にでもある経験だろう。

まず、解決策を考える前に、どうなることでこのアクシデントが起きているかを考えてみたい。これまでのブログでも何度か触れたように、ピアノという楽器はハンマーが弦をたたくことで音となる。ハンマーが思ったより速くあるいは強くあたり過ぎたり、あるいは逆にあたり損なったりしてしまうことで、鳴り損ねや鳴りすぎということが起きる。

もちろんピアノを弾く時に、どれほどの速度で、どういうタイミングで・・・といちいち考えて計算しているわけではない。それをある程度自動的に感じられるようにするために、普段から“意味のある練習”を通して、感覚を体に染み込ませていくのだ。

今回のテーマである“静かに、そして深く豊かな音”を得るためには、完璧な打鍵のタイミングをわかっていることが必要となる。打鍵というのは、鍵盤が“底にあたって”初めてできるわけだから、そのタイミングをつかむためには、鍵盤が降りるときの鍵盤の重さ、つまり鍵盤が上に戻ろうとする力を指先で感じている必要がある。鍵盤が戻ろうとする力を感じながら、それに見合った速度で鍵盤を下ろし打鍵をする。

ゆっくりとした深い丸みのある温かい音。たとえば、ベートーヴェン作品110の1楽章の始め、あるいは作品109の3楽章の始め、あるいはショパンのバラード4番の出だしなどなど。ぷるぷるっと震えてしまうのも稀ではない。
こういう時に、安心して弾けるための、<指先が捉えている鍵盤の感覚>を、今回は理屈ではなく感覚で説明してみたい。


プールで泳ぎを覚え始めのころに使うビート板。これを使ったことがある人は多いだろう。もしもなければ、発泡スチロールの板でも良い。これをちっちゃく5センチ四方ぐらいに切ったところをイメージしてほしい。イメージで十分!
これが、私の言うミニビート板。(^。^)

これを持ってお風呂か何かで、湯船につかっているところをイメージしてみよう。お湯にミニビート板を浮かべて、それを人差し指と中指の指の腹だけを使って、お湯の中に5センチほど静めるとする。手首や腕に無理をせず、ミニビート板が斜めにならないように、指の力でぐっと水面5センチぐらいの深さに沈める。すると水圧が指先にかかって、ミニビート板が押し戻されそうになるので、それに負けないように、そしてビート板が斜めにならないようにぐっと手のひらをしっかりさせて、指の腹で水に沈める感じがわかるのではないかな。

ゆっくりと静かに深い音を出すとき、このお風呂での指先の感覚が非常によく似ている。少し感じがつかめるかな・・・

2008年3月 9日

プールから学ぶ?! (1) -ターン-

難しいところが弾きづらい場合、どうして弾きづらいのか、練習に入る前にその原因を探すことが大切だ。様々な難しさがあると思うけれど、ピアノ演奏でよくあることの一つ、大きく素早いポジション移動のときのミスについて書いてみたい。これは主に2つの原因が挙げられると思う。

1) これから来る難しい個所が気になって、目の前の事が不安定になる。
2) 移動に無駄があり遅くなっている。

最初の点については、階段を降りるようなものだ。ふと、先に気が行ったために、目の前の段を踏み外しそうになり、ひやっとすることがある。今弾いている音をきちんと弾くだけでなく、きちんと出した音を耳でキャッチ(聴く)してから次の難しいところを弾くということを常に頭に置いておくだけで、良い意味で演奏に安定感が出る。

2)について詳しく考えてみたい。これは、“速い移動をしなければいけない”という思いから来る間違いで、意外と多い。たとえば左手で、低いバス1音と真ん中あたりの音域の和音を交互に弾かなければいけないとする。バスを弾いて素早く次の和音に移動しなければいけないから・・・と左右への鋭い動きで鍵盤上を右へ左へと反復横とびのように(笑)移動して演奏しようとするケースが良くみられる。
これは本当に一番早い動きなのだろうか。

プールで泳ぐときのターンをイメージしてみよう。壁にタッチしてターンする方法ももちろんあるが、速いのはクロールなどで見る、壁の手前でくるっとするターン(クイックターン)だ。

水泳で壁にタッチしてから向きを変えるのと同じように、左右への鋭い行き来は速いようで実は大きく時間のロスをする。それは方向転換をする時にその向きが180度反対になってしまうので、今向かった速度にブレーキをかけて反対方向に動くことになるからだ。左右にそれを続ければスタートしてはブレーキをかけるという繰り返しになるため大変な運動になる割に速い移動ができない。

少ないエネルギーで一番早く動けるのはどういう時だろうか。

それは“円”を描くこと。

肘を軸にして、腕を回してみよう。左右素早く腕を動かすよりも、肘を中心にして円を描くほうが少ないエネルギーで、楽に早く動かせるのがわかるのではないだろうか。ここで大切なのは、肘を軸にするということ。円を描くということは、軸がないと非常に難しい。
コンパスでも軸がある。アイススケートで同じところで早くぐるぐるまわる演技があるが、これも体の軸が命になると思う。同じことがピアノでも言え、上記の場合ではその軸が肘である。

この“円”の動き、もちろん目に見えないほど鍵盤のそばで小さく行わないといけない。大きな円を描いていては逆効果で、かえって時間ロスになってしまう。自然な動きとは、移動するバスと和音の中間あたりに肘が来るように置き、それを軸として鍵盤の“ほんの”少し上を曲線を描くようにバスを探しに行き、バスを弾くと同時に鍵盤に這うように戻る。這うように行って這うように戻るのではなく、ほんの少~しだけ上に山を描く様にバスを探しに行くというのがポイント。そしてバスを弾いたと同時に真ん中の和音に戻る。その動きを線で描くとすると、横に長~い楕円のような動きだ。もちろん例外もあるのだけれど、概ねの基本はこの動きが利用できるだろう。

ピアノに限らず、楽器を演奏する際、体ができる限り自然な状態に近いほうが良い。バイオリンでも、チェロでも、クラリネットでも・・良く考えてみると、体と楽器が一体になるように、両腕で円を描くように楽器を包み込んでいる。ピアノも同じ。演奏でこの円の原理という自然な動きは本当に良く使う。

ショパンは手が小さい人だった。彼は本当にうまくこの円の動きを使ったテクニックで
曲を書いている。大きな移動に限らず、円のテクニックはショパン演奏の基本だと思う。そう考えてテクニックを探してみると面白いかもしれない。


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2008年1月10日

自分を知る、楽器を知る 最終回(7)  “ぬく”“緩める”という意味

鍵盤を“戻す”こと。これは、前回の“プラス方向”に送ったエネルギーを吸収すればできる。簡単に言うと、エネルギー(自然な重さ+速度)を送り込むのをやめれば、鍵盤は勝手に元の位置に戻ってくる。つまりは、緩めれば戻ってくる。スタッカートにしたければ、鍵盤を早くハンマーにあてて、すばやく戻せばよいわけだから、打鍵の後、“素早く抜けばよい”ということになる。
だから、短い音にしようと必死で上へ指や手をしゃくりあげる必要はない。

この“ゆるめる”ということ。誰もが耳にしていると思うこの言葉。場合によっては、“ぬく”と表現されているかもしれない。ピアノでいう緩める、抜くという状態は実際にはどういうことをいうのだろうか。このことが、本当の意味で正しく解釈されていないことが多いと、あらゆる場面で感じる。

<本当に緩めてしまったら、どうなるか>を考えてみると良いかもしれない。

たとえば、地面に立っているとする。力を入れずに<休め>の姿勢で立っているときをイメージしてみる。この時、すべて緩んでいるだろうか。もちろんそうではない。例えば、足首やひざは緩んでいない。緩めていたら、がくっと倒れてしまう。

ピアノも同じ。本当に手を緩めたら、手が手首からだらんと下がって幽霊みたいな状態になるし、腕を完全に緩めたら、ピアノの上にどたっと腕全部の重さがかかってしまう。

原則11)演奏中に、完全に緩めてしまうことはない。

では私たちが使っている“緩めて“という表現は、どういうことなのだろうか。

それは、”スタンバイ“ができているという状態のこと。次の音、次のポジションへ移動できるスタンバイ状態。

椅子やソファーににどてーっと座っている状態で、さぁ、今から走り出そうと思っても、体が準備できていない。走り出す前の状態、たとえばかけっこでスタートラインに立っているとき、体は固まっていないけれど、足やひざなど必要な部分は、意識が高まって移動できる状態にあるだろう。これと同じで、ピアノでも次に動ける状態というのを”緩める“と表現しているのだ。


原則12)ピアノでの“緩める”ということは、“スタンバイができている”ということ。

1つの音を弾いた後、その指を固めているわけではないが、その指を利用して次にどこにでも動けるスタンバイ状態を作れていないといけない。つまり、適度にしまっていて、同時に柔軟な状態とでもいえるだろうか。わかりやすい感覚としては、
椅子の上から地面に飛び降りた時の両足の状態かな。足を固めていたら着地の時にとても痛い。でもゆるめてしまっていたら足をくじいて倒れてしまう。ばねの利いた状態で、足で地面をとらえ、すぐに飛び降りたエネルギーを吸収している。指の適度にしまった柔軟さは、この足の感覚によく似ていると思う。

これは指だけに限らず、体もおなじ。理想の座り方の状態は、お尻の上にはしっかりと座っているけれど、上半身は、とても軽い状態なのだ。どてっと座っていては、エネルギーを指先に送ることができない。

これまで7回にわたってピアノと人間という二つの楽器について見てきた。ピアノを弾く時に、決してあの機械がああなって、ハンマーがこうなって・・などと考えながら弾いているわけではない。どんな時も、耳が優先。耳から探す。つまり、音やキャラクターのイメージをまず鮮明に頭に描き、それを耳を通して音にしていく。ほしいと思った音が出た時にはじめて、今どういう打鍵をしたのか自分で再確認するというのが、理想的な練習の順番だと思う。

譜読みをして、ある程度弾けるようになってから、キャラクターを考えるのではない。
まず、キャラクターやイメージから入ること。このことはいつでも心の隅に置いておいて欲しい。

その上で、楽器というものの作りをもう一度見直し、理解しておくことは決して無駄ではないと思い、今回の7回にわたるブログを書いてみた。自分にとっての再確認として文章にしてみたのだけど、もしも何かの役に立っていたら嬉しいな。


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2007年12月13日

自分を知る、楽器を知る(6)  プラス方向に弾く

鍵盤を触ったところから、鍵盤の底までの数センチ。この間にどれだけの重さと速度を落とすかで様々な音がでることは、今まで見てきたとおり。この重さと速度を組み合わせたものをエネルギーとここでは呼んでみる。

原則9) ピアノは、下に向かってエネルギ―を送りこむ、いわゆるプラス方向の作業“のみ”で弾く。

当たり前のように聞こえたかもしれないが、実際は音を弱くしたいとか、軽くしたい、やわらかい音が欲しい、などとなると、下に落ちないように、とブレーキをかけたような打鍵をしてしまうケースが非常に多い。こうなると、ピアノを弾く時の基本である<重さを“落とす”>ことができなくなる。

または、短いスタッカートにしたいとき。熱い鍵盤をさわるかのように、ぴょんぴょん撥ねる打鍵を見ることがある。それは、短くしている気になっている“自己満足”でしかなく、本当のコントロールはきかない。

もう少し楽器のことを考えてみよう。

ピアノは指が鳴らしているのではなく、ハンマーが弦をたたいて鳴らしているのだ。そのことを忘れないでほしい。そのハンマーは下から上にあがる。つまり、どんなに軽い音や、弱い音が欲しくても、私たちは鍵盤に対して、エネルギーを下に“送り込む”、つまりプラスの作業をしない限り、理想通りの音にはならない。

弱く弾く、やわらかく弾くというのは、送り込む量を”減らす“マイナスの作業ではない。そうではなく、逆に”少ない“エネルギーを<送り込む>というプラスの作業なのだ。

もっとはっきりと伝えるために、こういう例をあげてみよう。楽譜に四分音符でド、そのあとに八分音符でソの音(先ほどのドのすぐ上のソだとする)が書いてありその後ろに八分休符があるとする。更にそのドとソにスラーがかかっているとイメージしてほしい。それを右手の人差し指でド、右手の小指でソを弾くとする。

言葉だととってもややこしいが、要するに

ドーソッというレガートだ。ソは短め。

実際弾いてみよう。

人差し指でドを弾く時は、鍵盤の底をつかんでいるが、小指を弾く時に手首をあげて、手を(手の甲を)鍵盤のふたの方へ浮かせた人がいるのではないだろうか。

浮かすことがいけないのではない。その方が感じ易ければ、“音の障害になっていない限り”どんな動きをしてもかまわない。ただ、ドーソッというレガートを作りたいという思いから、手をしゃくりあげたのだとしたら、それはレガートにした“つもり”、いわゆる自己満足にしかならない。

ドの時にエネルギーを多く入れ、少なめのエネルギーでソを弾けば、ソの音の方がドに比べて音に勢いが少なくなるので、ドーソッと聞こえる。ソの時は、エネルギーを減らしたのではなく、少ないエネルギーを下向きに入れただけだ。手をしゃくりあげる必要はない。

原則10) ピアノは、いつでも下へと弾く。上に引っ張り上げるのではない。

でも、次の音を弾くために、鍵盤をあげなければならないのではないか、と思った人もいるだろうか?

私たちに、鍵盤を上げることはできない。指先に吸盤でもついてない限り。笑
鍵盤を上げるのではなくて、戻すことならできる。どういうことかわかるかな?

この続きはまた次回に。

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2007年12月10日

自分を知る、楽器を知る(5)  耳の大切さ

残念ながら、数学のように、どの重さにどの速度を足すと、こんな音が出る、という決まりがあるわけはないので、それは自分の欲しい音をイメージして、実際出ている音を耳で判断しながら、どういう種類の打鍵をしたら自分の理想の音に近付くかを探していくことになる。

ただ、参考として、こういうことを言っておこう。

原則7)部品が重くなると、動作が遅くなる。

たとえば、二つの押しボタンが目の前にあって、それをできるだけすばやく交互にたたいてほしいと言われたとする。
その手段として、鉛筆と、丸太の棒のどちらかを選ぶように置いてあったら、どちらを選ぶか、それは明瞭だと思う。とかいっておいて、丸太って言われたらどうしよう・・汗

音楽で例を挙げると、オクターヴで、しかもフォルテで上の方から下の方まで早く下りてこなければいけない部分があるとする。フォルテだからといって、全部の力を指にかけたら、指は動きづらくなる。早く行く必要があるからと言って、軽い方がいいからと指だけの重さにすると、力強いフォルテのオクターヴは出ない。

このように、大きい音が必要だから、重さを乗せ、小さいから軽くするというほど、単純ではない。使う部品とそれに加える速度のバランスを見つけるのは、耳の作業になる。ただ、耳で探す前に、

原則8)欲しいと思う音が頭にしっかりとあること。

それを持ってこそ、本当の意味の練習が始まる。

2007年12月 9日

自分を知る、楽器を知る(4) スピード

打鍵のスピードという話をしたけれど、それはどうやって調節するのだろう。

最低限のスピードで良いときは、第一関節から先をちょっと使うだけで良いだろう。
机の上に鉛筆が置いてあったとして、それを<そっと>持ち上げてほしいといわれたら、親指とそのほか何本かの指先で少しはさんで持ち上げるだろう。その時の感覚によく似ている。ほんの少し、指先で鍵盤の底をきゅっとつかむ。

それよりもスピードが必要な時は、第3関節から指先にかけての部分を使ってつかむ。ゆっくりつかむか、早くつかむか、その間のスピードが何段階にも調節できればできるほど、種類が増えるのは言うまでもない。そのためには、手の中の最低限の筋肉が必要になる

更にもっとスピードが必要なら、手首を軸として手でつかむ。ここで大切なのは、手の自然な動きに反しないということ。

手の自然な動き
とはなんだろうか。

たとえば、じゃんけんのグーを作ってみる。この時親指を横に出している人はいないだろう。いたりして・・・(・o・)
なぜかというと、手の平らの中心に向かって5本の指が集まっている状態が、一番自然だから。ついでに書いておくと、手が一番強さを持てるのは、手の中心に集まっているとき。手に力が必要な時は自然と握り拳(こぶし)を作ることからもわかる。

逆にじゃんけんでいうパーのように手をしっかり開いた状態から、指を楽に抜いてみよう。やはり指が手の中心に親指に向かい合うように寄ってくるのがわかると思う。これが手の自然な状態なのだ。

原則5) 演奏する時、できるだけ、手を自然なポジションに戻す

たとえ、和音などのせいで手を開かなければいけなくても、弾いたらすぐ“できる限りの範囲”で自然なポジションに戻す。開きっぱなしほど疲れるものはない。

ショパンの練習曲 作品10の1。右手が開いて大変なイメージがあるけれど、あれは右手に関して言えば、手をいかに閉じていけるかの練習曲。いかに開くかではない。ドソドミと弾いたら、ミを弾いた時には、ほかの4本の指はすでに小指の方に“自然に”集まってきていなければいけない。ショパンは手が小さかった人。彼の曲はどの曲も、本当に見事に、手が自然に集まるように書かれている。

これ以上のスピードが必要な時は、もうわかるだろう。肘を軸にして、肘から指までの部分を下ろすことで加速。5-6メートル先の人に、野球ボールを投げるのをイメージしてみてほしい。さらに、速度が必要な時は、30メートル先の人にボールを投げるような感じ、つまり
背中から加速して指先に送り込む。

ここで大事なことは、

原則6)どんな速度を送る時も“指先は生きている”

ということ。精密な作業は指先をきかせてするのと同じ。指先が死んでいると、速度を送り込んだだけで、鍵盤をたたいたことになってしまう。指先できゅっとつかむのを忘れない。

野球でイメージすると、もっとわかりやすいかもしれない。ボールを遠くに投げるために、腕を振り下ろした時、指は最後の瞬間までボールを握っているだろう。送り込まれた速度を最終的に“指先”が処理しているのは、ボールで考えればわかるのではないかな。

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2007年12月 6日

自分を知る、楽器を知る(3) 重さ

前回のブログで

私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができる

という話をした。ここで大切になるのは、“ピアノでいう場合の” 重さとは何か。ということ。

重さを使うということと、圧力をかけるということを勘違いしているケースがとても多いからだ。

重さとは何か。また物理みたいになってしまうけど、それは重力があってこそ生まれるもの。私たちが、地球の真ん中にむかって引っ張られているから、重さというものが生じる。

ピアノの前に座って、ピアノを今弾こう、としているときの態勢を考えてみよう。椅子に座って両腕を鍵盤の上にまだ音を出さずに載せている状態。これは、重力に反していることになるのはわかるかな。なぜって、腕を本当に重力に任せていたら、だらっと下に落ちるでしょう?鍵盤の上に<乗せている状態>、というのは、音が鳴らないようにするために、腕が落ちないように支えている。つまり、筋肉が緊張している状態。

これがわかれば、ピアノでいう重さをのせるという作業は、今支えていた腕を鍵盤に“落とす”、つまり落ちないように腕を支えていた筋肉を“ゆるめる”ということは、わかるだろう。ゆるめることで、体の持つ“自然な重さ”を使うだけだ。それ以上、押したりという“圧力”は全く必要ない。

原則3)ピアノでいう “重さ”は、ゆるめることから生ずる。

でも、必ずしも腕の重さ全部が必要なわけではない。その都度必要な音に応じて、体のどの部分の重さを使うかを変える。

さっきの、ピアノを今から弾こうとする状態をもう一度思い浮かべよう。椅子に座って音が鳴らないように、鍵盤の上に手を載せている状態。もし、指の重さだけが必要なら、この状態から指の付け根(第3関節というのかな)から先の部分をゆるめてぽとっと鍵盤に落とす。指の付け根を含め、そこから腕、肘のほうにかけては、鍵盤に落ちないように、さっきと同じ支えている状態を保つ。

ここで気がついただろうか。本当に“指だけ“の重さをぽとっと落とすことができた人にはわかったと思うけれど、指だけの重さというのは非常に限られている。それを落としただけでは、鍵盤は少し下がるだけで、底まで落ちない。それは、鍵盤に“上に戻ろう”とする抵抗力があるから。指だけの重さというのは、この鍵盤の持つ戻ろうとする力には足りないのだ。もし落ちた人は、指だけの重さではなく押してしまっている。
このことからも、重さだけで音を出すのではなく、最初に書いたように、その時の必要性に合わせた適度な重さに、適度なスピードを加えることで音というものを作ることができるのがわかると思う。


もし手の重さが必要なら、第3関節の代わりに手首から先をゆるめて手全体を指先に落とす。先ほどと同様、手首を含めそこから腕、肘の方にかけては支えた状態を保つ。

腕の重さが必要なら、肘から先を落とす。同様に肘は落とさない。肘が支えの軸になるから。

それ以上必要な時は、体の重さを背中から送り込む。その場合には、背中のさらに後ろ、つまり腰が軸となる。

原則4)ピアノでいう重さ=体の自然な重さ。

どの重さを使うかは、その時々に必要な音による。それについては、次回に!

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2007年12月 5日

自分を知る 楽器を知る(2) 音とは

9月のブログで、このテーマを取り上げた。言葉での説明が難しく、なかなかブログにしづらいとあれ以来苦戦しているのだが、やはりピアノを弾く上で基本になる大切な内容なので、言葉にしてみたい。

ピアノという楽器は、どうやって音が鳴る?

何をいまさら、という文章だけど、一度考え直してみてほしい。楽器を知らずに演奏はできないからだ。ピアノは誰にでも音が出せるので、どうすれば音が鳴るかなど、考えないまま今まで弾いて来ている人は山のようにいると思う。

―ピアノという楽器は、鍵盤を下せば音が鳴る。

と思いますか?

では、鍵盤を人差し指で、できる限りゆっくりと降ろしてみよう。・・・鳴らないでしょう?

―じゃあ、指先に重さをかけて弾く?

ほんとう?

さっきと同じ人差し指で、今度はすっごく重さをのせながら、できるかぎりそぉっと鍵盤を下してみよう。指先にはぐいぐい押してるけど、これも鳴らない。

何が違うんだろう。鍵盤と指にとらわれてしまわず、ちょっと目線を上げてみよう。グランドピアノという楽器は、目の前に長いのがわかる。ピアノを弾くというと、つい鍵盤と楽譜とのにらめっこになってしまうのだけど、ちょっと譜面台の向こうにあるピアノの中に目を向けてみよう。もう一度指で鍵盤を下しながらピアノの中をのぞいてみるとどうだろう。ハンマーが下から上がってきて、弦をポンと叩いて、また下に戻る。でも、ゆーーーっくり下ろしすぎると、弦を叩き損ねて、たたかないまま下に少し降りるのがわかる。

実は鍵盤って、すごく長い。指で弾いているところから、今見たハンマーのところまで長い棒のようなものだ。長い木の棒の手前を私たちは指でおろして、そのおかげで木の棒の向こう側の先っぽについているハンマーが上がる。

そう、つまり、

てこの原理。

てこって、手前を押すほど向こうが楽にあがる。奥の方を押そうと思うと上がりにくい。

原則1)特別な例外を除いて、できるかぎり鍵盤の奥の方を弾くことを避ける。手前の方がコントロールがしやすい為。

では、さきほど重さをかけても音にならなかったのはなぜ?

それは、エスケープという機能が関係してくる。難しい話になりたくないので、少しだけにしぼって説明すると、鍵盤をゆっくり下ろしすぎると、ハンマーが弦を叩き損ねて少しだけ下りるということは実際やってみるとわかるだろう。それは、弦を叩く直前にエスケープという機能が付いていて、それがあることで、ハンマーが弦にあたったままにならないで、下りてくるようにしてあるから。なぜそうしてあるかというと、ハンマーが弦に当たったままになったところを想像すれば分かると思う。ハンマーは綿みたいに柔らかいものでできていて、それで弦を押さえつけると、音が伸びなくなってしまう。シンバルをたたくときに、たたいた後二つのシンバルを合わせたままにしているようなものだから。

ピアノがこういう仕組みになっていることを考えると、いくら重さ”だけ”をかけても、それに最低限ある程度のスピードを加えない限り、そのエスケープのせいでハンマーが弦をたたく前に降りてきてしまうのはわかるだろう。

原則2)ピアノという楽器で音を出すには、打鍵をする“スピード”が一つのカギとなる。

重さをぐいぐい掛けるのではなくて、スピード。

では、重さは使わないの?

もちろん使います。それについて説明してみよう。

ピアノでは、もちろん様々な音の色が必要になる。音の色を変える方法は、和音のバランスとか、音を出すタイミングとか、ハーモニーとかペダルとか・・本当にいろいろあるのだけれど、今見たように音を鳴らすには打鍵のスピードが一つのカギになるという根本から考えると、極端にいえば送り込むスピードを変えることでも音の色を変えることができるわけだ。

逆に、同じスピードを送り込んだとしても、軽いものにスピードを足して送るのと、ある程度重さのあるものに、速度を足すのだと、到着する勢いに違いが出るのは、想像できるだろう。
たとえば、ある大きさの、紙でできた箱と、それと同じ大きさのレンガの石があるとする。それを同じ様に勢いをつけて地面に落としたとすると、落ちた時の勢いが違うのはすぐ想像できると思う。

つまり、もともとの重さ×それに足す速度(エネルギー)で到着点の勢いがかわるので、重さと速度を組み合わせによって、様々な勢いを作ることができるというわけ。

なんか物理みたい・・・汗

なので、私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができるということになるのは、わかってもらえただろう。

自分なりに、分析してみたのだけれど、こんな感じであっているのかな・・

ふう・・・言葉だけの説明って大変・・・頭がショートしそう・・・((+_+))

・・・続きは次回のブログで♪

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2007年11月26日

~意味のある練習を学ぶ~ “どこまで”を見る

Crescendo を見ると、途端にぶわーっと襲いかかってくる演奏を時々耳にする。これを、“こわい”クレッシェンドと私は呼んでいる。聴いていて本当に怖いからである。笑

Crescendo=大きくする。といういつの間にか覚えた観念から来ているのだろう。もちろん間違いではない。でも、音楽に接するときにいつも初心に戻って考えてほしいことがある。

作曲家は、なぜそう書いたのだろうか。

楽譜を見ているとわかると思うけれど、昔に戻るほど、作曲家によって書かれた速度表示や、強弱表示が少ない。スカルラッティなどには、何も書いていない。少しずつpやmf, ff、crescendo,diminuendoなどの強弱記号やaccelerando, ritなどの速度表示が書かれるようになり、それからdolce, espressivoなどの性格に関する表示が記載されるようになる。
“撫でるように”、“不安げな”、“遠くから”・・・など、踏み込んで具体的な表示がかかれるようになって来たのは本当に近代である。近代の作品には、“言葉”の表示が本当に多い。それに対して、ベートーヴェンやショパンなど、よく見ればまだとても限られた表示のみでしか記されていない。

ということは、私たち演奏する側に必要なことは、“どんな”ピアノ、“どんな”クレッシェンドを必要としているのか、ということを考えること。そうでないと、クレッシェンドのたびに大きくしたり、ピアノだから小さくしていただけでは、行ったり来たりのすごくつまらない演奏になってしまう。

たとえばクレッシェンド。
あるクレッシェンド表示があるとする。まず何が必要だろう。それは
1) どこから(=どういう音量から)
2) どこまで
そして、
3) どのように
ということを見ること。

わかりやすく言うと、クレッシェンドと一言で言っても、どういう大きさから始めて、どこまで上る必要があるのかということ。そして、どういう風に上るか。

場合によっては、ピアノからフォルテまでかもしれない。でも、メゾピアノからメゾフォルテかもしれない。もしくは、ピアノの中でのクレッシェンドかもしれない。

一番良い方法は、まず“どこまで”を先に決めること。前後関係や、曲の全体のバランスを考えて、こういう大きさまで上っていく必要がある、ということを見極める。

次に、“どういう”クレッシェンドが欲しいのかを考える。そのために、まず見る必要があるのは、何小節かけてクレッシェンドすればよいのかということ。それによって、急なものなのか、じりじりと来るのか、それともふわーっと広がるのか・・、など。つまり、“どのように”ということを見ることができる。

どこまで、どのように、と見ることによって必然的に、“どこから”、つまりどういう音量から始めるということが見えてくる。その上で、曲の性格をみながら、いろいろな種類のクレッシェンドを作り出すと面白いだろう。

多くの場合、クレッシェンドを見ると、まず大きくし始めてしまう。そうではなく、目的を定めよう。これから階段を駆け上がらなければならない時に、2階までのぼれば良いのか、10階までなのか、それがわかっていて初めてエネルギーの配分ができる。それと同じことだ。

Diminuendoも同じ。どこまで小さくするのか、をまず見極める。とりあえず音量を減らしてくるのではない。まったく同じことが、だんだん速く(accelerando)やだんだん遅く(ritardando)にも言える。どのテンポに向かってだんだん速く(遅く)するのか。

当たり前に聞こえる今回の話。振り返ってみると意外と、“どこまで”から探して始めていないことに気付く人もいるのではないかな。基本に帰ることをいつも忘れないでいたい。

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2007年10月 3日

伝えたいこと(4) 練習に必要なこと

いつのまにかマンネリ化してしまうことがある=練習がつまらない。こういう悪循環になるときは、知らないうちに何かが欠けてしまっていて、それに気がつかず、ただやらなきゃという使命感だけでおし進めてしまい、結局は空回りしてしまっていることが多い。

何が欠けているんだろう。

“本当の意味での”練習に必要なこととして、私はこの3つを上げる。

1) 向上心
2) 忍耐力
そして
3) 好奇心

1) は、<上手になりたい><ここを弾けるようにしたい>など何でも良い。きっと
さまざまな形で、みんな多かれ少なかれ持っているだろう。

2) は、曲の続きがどうなるのかが気になるとか、通して弾きたい、このかっこいいクライマックスまで弾きたいなど、つい通し練習が増えてしまう場合。または、少し弾けないところがあっても、ちょっとそこを弾き直したらすぐ先に行こうとしてしまうケース。そんな先へ進みたい欲望をぐっと抑えて、今練習しているこの場所がしっかり手に入るまで練習する必要性を忘れないでほしい。大体できたら次に行く、だと、結局また戻ってしまう。そして、できたと思ったら、確認の意味も含めて<更に>磨く。あわてず、丁寧に深く練習。これが一番の近道。

  本にたとえてみよう。話の先が気になって、ざっと読み進めてしまうことがある。でも結局、登場人物や状況が把握できなくなって数ページ戻って読み直すことになるという経験はないだろうか。

そして最も大切なのは

3) 好奇心。

ひとつのイメージがあるとする。それが音にできたと思っても満足せず、ほかの可能性はないだろうかと探してみる。たとえば、劇であるセリフを読むとき、うれしそうな表情が欲しいとする。うれしさがあふれるように、早口に読んでも良い。声の質を明るくしてもよい。でもうれしさをあえてこらえ様としているような感じでも面白いかもしれない。あふれているというより、満たされた安心感、満足感の漂う嬉しさかもしれない、あるいはその前になにか緊張することがあって、それが緩むほっとしたうれしさはどうだろう。イメージひとつでも、たくさんの可能性がある。

または指使い:楽譜に書いてあるのを試してみる。しっくりいったとしても、もしかしたらほかにもっと良い方法があるかもしれない。でも弾きやすくても、音楽的な表情をだすためには、あえて弾きにくい方の指使いの方がよいかもしれない。10本の指があるのだから、あれこれ試してみたい。

ある作曲家の曲を弾くとする。そういえば、この人ってほかにどんな曲を書いたんだろう。ピアノに限らず、室内楽、シンフォニー、歌曲、管楽器・・・たくさん聴いてみるのは不可欠だ。ベートーヴェンのソナタなら、自分の与えられた曲だけではなく、ほかの曲を弾いてみるのも良いだろう。

可能性を増やすのは、自身の“好奇心”。

私も初心に戻って、がんばろっと。
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2007年9月 4日

~意味のある練習を学ぶ~  <自分を知る、楽器を知る-1>

この夏、クールシュヴェール夏季国際講習会で、1ヶ月にわたり総勢55名ほどのレッスンをさせていただいた。今年のクールシュヴェール講習会は、計31カ国から参加者が集まった。私たちのクラスも、その影響もあり国際色豊か。セッションによっては、日本人が集まった期間もあったが、それ以外に、フランス、イギリス、ドイツ、中国、メキシコ、イタリア、スペイン、コロンビア、ロシア、韓国・・ざっと思い出すだけでもクラスにこれだけの国籍があった。こうたくさんの違う顔ぶれをレッスンできるのはあまりないので、非常に興味深い夏だった。

これだけの異なった人たちに接した結果、レベル如何に関係なくほぼ大半に共通して気になることがあった。

<不自然>

ということ。音楽がということではなく、演奏の仕方がである。
体をくねったり、足が落ち着かずふらふらと前後左右にそらしたり、そして腕やひじを頻繁に動かす。あるいは、鍵盤がかわいそうなほど、ぎゅうぎゅう押したり。

みていて、苦しくなるほどものすごい肉体的な努力をして弾いている。
動くことに闇雲に反対するわけではない。音楽に影響がなければ、自分の心地よい様に動いたって良いと思う。でも、そういう場合目をつぶって聴かせてもらうと、必ずといってよいほど音楽は非常に平らな場合が多い。

不自然なのは、良いはずがない。弾いているほうもあれでは居心地が悪いだろう。

では、なぜそうなってしまうのか。大きな要因は主に二つだと思う。

1) どう演奏したいのかがあいまいな為に、動くことで音楽を表現して、言葉は悪いが自己満足になっている場合。

2) ピアノという“機械”、そして自分という"機械“を理解していない場合

1) に関しては、今までのブログでも事あるごとに触れているが、“こんな感じ”というあいまいなイメージで、満足している場合である。繰り返すが、あいまいな理想のまま音を出すと、だんだん理想のほうが下がってきてしまう。それに気がつかず、ある程度の音色が出た時点で、自分が理想にたどりついたと満足してしまう危険が高い。

* <はっきりとした>音のイメージがないままピアノを決して触らないで欲しい。

そして2)の<二つの機械>について。
多くの場合、本当によく練習してあっても、意外とピアノという機械、そして自分という機械について知らないことが多い。

* ピアノは、どうすれば音が鳴るのか。そして
* 私たちはどうやってピアノを弾いているのか。

とても簡単に聞こえるこの根本の問いかけだが、実際にその事をきちんと考え、そして掘り下げることを今まで一度もしていない人は多いのではないだろうか。でもそれこそが、なによりもまず最重要な知識だと思う。今回の講習会でその欠乏に驚いたと同時にそのことに関してレッスンで話をする必要性を痛感した。日本で行っているMessageFromBerlinプライベートレッスン。ここで会う生徒さんたちには是非そのことを事あるごとに話したいと思う。そして、日本でのMessageFromBerlinシリーズの一環として、タイトルを定めて少人数で講習をするということも考え始めている。みなさん、どうでしょうか・・・

2007年7月 6日

~意味のある練習を学ぶ~ 集中ということ

前回のブログで、緊張について書いた。そこで触れた、“集中する”ということについて、もう少し詳しく考えてみたい。

演奏中は集中すると書いたけど、いったい何に集中するのだろう。
音楽に?? 本当?? 音楽に集中するってどういうこと?

まず、もう一度”練習“ということの意味合いについて考えたい。
練習には3つの大切な作業があると思う。

1) どうしたいという自分の<はっきりとした>イメージを持つ。
2) そのイメージが聴き手に伝わるためには、どういう音を出せばよいのかを考え、あれこれ試してみて探す。
3) 出てきている音が本当に自分のイメージのように聴こえてきているか判断する。

つまり、心、頭、耳。このどれも欠かせない。

それ以前に、いわゆる”機械的“な演奏が1番まずい。弾けるようになることをとりあえずの目的にして、ひたすらリズム練習などで、音だけを弾いてしまうことから来る大きな遠回り。練習を始めるにあたっては、最初からイメージを強く持つこと。これは忘れないで欲しい。

イメージを持つことの大切さについては、皆さんよく言われると思うけど、そのせいでありがちな誤解のケースが、

<自分なりにイメージを持っている=音楽的に弾いていると勘違いしてしまう>

こと。つまり上記の1)のみになってしまうこと。やっているつもりで、現実が聞こえていないタイプ。

そして次によくある間違いが
1) と3)だけになってしまう場合。
つまり、イメージをもって弾いているのだけど、思うようには響いていない気がするので、もっと強くイメージを持って、さらにとりあえず何回も弾いてみる、というケース。
理想と現実の差が聞こえているのは良いものの、その差を縮めるために<どうすればよいのか>を考えるという2)のステップが抜けているタイプ。

イメージを強く持ったからそのとおりに音が出てくれれば、こんな嬉しいことはない。
でも実際には、そう簡単にはいかず、自分がイメージする様に<相手に>伝わらなければ何の意味もない。それも、"音”で伝えなければ意味がない。

あるとき、私のパートナー(以下D)の生徒さんで、弾きながらハミングのように歌う生徒がいた。だんだんエスカレートして、最後はほとんど彼女の声の方しか聞こえないぐらいの演奏になった。なんで一緒に歌うのか、と聞くと

<だって黙って弾くと、音が歌っていないように聞こえるんです>

という返事。すかさずDが
<それは、君が黙ったことで現実に鳴っている音を聞いたということだよ。>と。

音が歌わないから、自分のイメージに近づくために、歌ってしまっている。要するに、やっている“つもり”。これほど怖いことはない。音楽家は<音>で伝えなければ、仕方ない。
顔をしかめたって、体を動かしたって、伝わらない。もしお客さんがラジオで聞いていたり、演奏者が見えない状況だったら・・と考えてみて欲しい。

そのために、大切なのが2)の作業。どうすればそう聞こえるのか、を探しに探す。ひとつ見つかったと思ってもそこで満足せず、ほかに方法はないかいろんなパターンを試してみる。この模索する時に、本当にたくさんの可能性を学ぶことができる。

たとえば、ここは不安げに弾きたい。だからといって不安げに!と思って弾いたってそうは聞こえない。むしろ音が抜けて、”不安定“に聞かせる結果になってしまう。
そうではなく、不安げに聞こえる音を出す必要がある。そのためには、”不安げ”という感情はどういうことなのか。なんで"不安“を人間は感じるのかを考える。どういうときに不安を感じるのか。不安という感情は、なにかわからないから来る。明らかであれば、怖いものはない。だから、拍子や強拍がはっきり出ないようにしたり、ペダルを薄く使って不気味な効果を出してもよいかもしれない。ハーモニーがたくさん変化する場所なら、それを利用して、一つのハーモニーに安定せず移り変わりを強調しても良いだろうし、不協和音があるなら、それを聞かせるように弾くのもよい。不協和音というのは、文字通り"協和しない”わけだから、不思議な響きとなって、不安さを出すこともできる。

これは、ほんの1つの例でしかない。こういう風に考えて探す過程で、耳も非常に養われる。また、たまたまほかの事を見つけることもできる。不安さを探していたのに、やたら明るい音が出てしまったとしたら、“明るい”方の音も、学んでいるわけだから。

不安定に聞かせたいために、実際不安定に演奏しているのではない、つまりそう<聞かせる>ことが大切なんだ、という例をもう少しわかりやすくするために、演劇をイメージして欲しい。
大きなホールで、なにか内緒話をするシーンを演じるとする。
本当に、内緒話の声で舞台でしゃべったら、誰にも聞こえない。ささやかれているように
聞かせる声を出しているだけで、実際は一番後ろのお客さんにもひとことひとこと全て聞こえているでしょう。

ピアノでも同じこと。探すことから学ぶことは本当に大きい。理想を高く持ち、あれこれ試行錯誤してみてほしい。 

強いイメージもち、実際にそう聞こえているか耳で判断し、調整する。
練習であっても、演奏会であっても、

<心、頭、耳すべてを研ぎ澄ませて>

いて欲しい。これこそ"集中”ではないかな。音楽に集中する・・・これだけでは少し簡単すぎる答えのような気がする。

2007年6月25日

~意味のある練習を学ぶ~緊張ということ

これは、いわゆる”あがり症“というタイプの演奏家にとって、永遠の課題と言えるだろう。このテーマでブログを出したいとはかなり長いこと考えていたが、とても難しいテーマで、考えに考えているうちに今になってしまった。私も自慢じゃないが、ものすごく緊張するタイプ。まだ結論や答えがでたわけではないけど、これまで考えあぐね、いろいろと試してきた過程で今思うことを書いてみたい。私と同じように、“相当あがる”タイプのひとに読んでもらえたらと思う。

私は、ある年齢まで“どうしたら緊張しないか”という事ばかりをしばらく考え、試みてきた。でも本番がくるたびに、“あぁ、今日も緊張してる。今日も震えてる・・・”と相変わらずの緊張にがっかりしていた。

ところがある時、ふと気がついた。
あがるのは、私の性格、タイプなんだ。つまり、私という人間そのものなんだ。

つまり、それを排除しようとすることに間違いがあるんじゃないかなと。おっちょこちょいの性格の子は、大人になってもおっちょこちょいだ。(←ハイ、私のことです。)それを"治そう”というところからスタートするから、本番のたびに、”今日もだめだ・・“というマイナス思考になってしまう。
私はあがるタイプだ。つまり、あがっているのが ”普通”の私。だから本番であがっていたら、”あ、今日もあがってるじゃん。いつもと同じだ“と、ちょっと自分に笑いかけて、あがっている状態を認めるようにした。そのことでまず第一段階としてほんの少しだけど、楽になった。あがらないように、ではなく、あがっている自分を普通の自分と認めて、どう付き合うか、と考えるようになった、といえばよいだろうか。

これまで、いろんな人に

本番なんて、たいしたことじゃない、失敗したって死ぬわけじゃないし。お客さんをジャガイモだと思えば良い、自信を持って!

などなど言われ、そう思おうと努力してみた。皆さんも、そういわれた事ありませんか?

<でも、そんなこと無理!>(>o<”)

第1に:お客さんがジャガイモに見えるわけなし。お客さんはお客さんだ。鬼に見えても、ジャガイモには見えん。
第2に:自信を持てっていわれたって、持とうと思って持てれば、そんな楽なことないけど、そんなの無理!

これが、私の心の叫び。というか努力してみた結果無理だった・・・泣

同じこと感じる人へ。一緒にがんばりましょう。(^_^)

そんな人のために、少しでも役に立てればというのが今回のブログ。

なぜ緊張するか・・・・・そんなこと知っても緊張するものはする。( ̄^ ̄) エッヘン(←自慢するか?!)
今の私は、それよりも<緊張と共に生きていこう!>という考えなので、緊張しているとき、いったい自分がどうなっているのかということをまず考えてみた。

舞台の上。緊張してる。そこで演奏を始めるわけだけど、私の場合、弾き始めた後の頭の中はこうなっている。

げ、あがってる。手が震えてる・・・、弾けるかな、弾かなきゃ。
次なんだっけ・・・、あ、そんなこと考えちゃだめだ。集中集中・・・。
少し落ち着いてきたかな、弾けそうかも・・、あ、やっぱりあがってきた・・・。

_もちろん、有無を言わさず曲は進む_

あと半分だ。もう少しだ・・・え、あーあーあー、左手が”ぐちゃっ”てなった、こわいー
助けて・・。

などなど
こういうことが頭を渦巻いていた。

つまり、演奏中

まったく音楽に集中していない

のだ。私のだんな様((以下D)によると、集中力は
トレーニングで着くものであり、集中しようと思ってすぐできるものではないという。
日ごろの練習で、集中力をつけるべきだと。

そこで、普段の練習で自分が集中しているかどうか、気をつけてみた。
すると、なんと言うこと!2-3小節しか弾いていないのに、もうほかの事を考えてる。
たとえば、今日はあとこの曲練習しよう、とか、あ、そういえば昨日友達と・・・とか。

これじゃだめだ、集中しよう!!
と思い直して、もう一度最初から弾き直してみても、また数小節でいつの間にかほかの事を考えている。信じられなかった。
それからというもの、練習するたびに、少しでも長く集中が続くように少しずつ努力してみた。つまり、気が散っていることに気がついた瞬間に弾くのをやめるのだ。最初の数日は、5小節も進まない。習慣って本当に恐ろしい。
でも、不思議なことに、Dが言ったとおり、それが日がたつにつれ集中できる瞬間が少しずつ少しずつ長くなっていくのだ。

集中は、疲れも影響する。疲れているのに無理やり集中しようと思ってもなかなかうまくいかない。たくさんの生徒をレッスンした後などは、頭も耳も限界に疲れていて、
練習にならないことが多々ある。
そういうことを考えると、本番の日に、あまり弾きすぎるのは良くないという意味がよくわかってきた。エネルギーと集中力を温存するためだ。

この集中力が今の私は、まだうまく続く時とそうでない時のばらつきがある。でも確実に
パニックにはならなくなった。一生勉強。焦らず、少しずつ身に着けていけたらと思う。
皆さん、一緒にがんばりましょう。笑

今回は相当長くなってしまったので、ここまでにするけど、もう一言だけ。
本番に向け、
"あれをしてはいけない、これをしてはいけない“、つまり
間違えちゃいけない、早くなっちゃいけない、などと <してはいけない>
ことを考えるのではなく、

“こうしよう、ああしよう“と、やりたいことを決めて、
積極的に演奏するのもひとつの手だと思う。

2007年2月15日

ベルリン芸術大学 入学試験

毎年2回行われる入試。できる限り毎回聞きに行くようにしている。これまで、10年近くかなり頻繁に足を運んだ。その当時、もともとひどくあがって自滅するタイプだった私は、極度に緊張する場面での精神的な強さを少しでも身につけたくて、様々なことを試みていた。その1つとして、人のいろんな緊張場面に立ちあうことで、自分の精神面での勉強にならないかと願って入試を聞かせていただいていた。最近は、私の仕事に、教える立場が加わったため、少し違う角度からの勉強をかねて足を運んでいる。その1つに、ベルリン芸大の入試をめざす生徒さんのレッスンをさせていただくことが増えてきたこともあり、入試の傾向をしっかりとつかみたいということがある。

ベルリン芸大の入試は、2次予選方式。1次は古典のソナタの1楽章(あるいは古典派作品の出だし)をほんの3分ほど聴くだけ。え、3分で何が分かるの?といわれそうだが、これが見事に分かる。あとでそれについては説明しよう。

2次では、Bach,古典派の作品、自由曲という3種類プラス初見。弾かせてもらえるのは合計で15分ほどなので、古典の作品や自由曲では、途中でとめられることになる。

ベルリン芸大の入試倍率は、年によって違うが、6倍から15倍ほど。非常に難関である。この狭き門を通り、先生方の耳に止まるのはどういう演奏なのだろう。言い方を変えれば、どんな演奏が私たちを聞き手をひきつけてくれるのか。今年は1観客としてそういう観点から聴いてみた。

入試と言うのは、独特な試験方式だと思う。次から次へと受験生が試験官の前を通り、演奏する。先生方は非常に厳しい日程で、朝から晩までそれを聴くことになる。人間の集中力や耳の新鮮さなどというのは、やはり限界があると思うので、全てを100%の集中力で聞き続けることは非常に難しい。(私が以前全員聞いたときの個人的な印象だけど。)

その中で、耳に止まる演奏と言うのがある。私の主人も審査をしていて、冗談半分で生徒さんに、

<その時間はきっと疲れて僕たち眠りかけてるから、僕たちを起こすような演奏してね>

と笑って励ましていたが、まんざら冗談ではないと思う。"目を覚まさせる演奏”と言うのが、ある。

その1つは、

― 音美人

今回、とても美しい音を出す子がいた。朝から何人もが弾いて音楽を鳴らしていったホール、しかも同じ楽器なはず。ところがその子が座ると、まだ今日一度も聞いていない、つやのある、美しい音をぽんと鳴らした。すると、ホールの空気がさっとかわり、私たちも先生方もふっとその中に飲み込まれた。

そしてもう1つの目を覚まさせる演奏。それは、

― 生きた音楽

生き生きした曲ということに限らず、静かなものでもそう、音楽に<命>が通っている演奏。みずみずしさというのかな。

そう、私たちが欲している生徒は、音楽に命を吹き込む<演奏家>。
この子は、弾けるか弾けないか・・・そういうことではなく、
この生徒の音楽が<生きているか>。そこで判断している気がする。
たった3分の1次予選でも、生きた音楽かどうかは、すぐに判断がつく。

もちろん、

<じゃあ、命をふきこもう!>

とおもって吹き込めるものではない。頭で吹き込むのではなく、心で吹き込むのだから。
本を読んだり、映画を見たり、自然と触れてみたり・・・そういうことから、感受性を日々鋭敏に育て続け、<心>を養っていくということは、芸術家を目指すものにとって不可欠なことだと思う。

<日本人的、アジア人的な演奏>
よくそういう表現を聞かされる。同じ日本人として、この言葉を耳にするのは非常に腹立たしい。ただ、残念ながらそうひとまとめにされてしまう傾向にあるのは確かだ。

入試に、恐ろしい面持ちで、しり込みしながら舞台に現れて、ただ一生懸命 

<弾いて>

帰っていく生徒が多い。少し間違えると、ため息をつき、あわててしまう。

でも、私たちはそういうところを目的に聴いているわけではない。コンクールでもない。完璧に"弾ける”生徒。それなら、学校に通う必要はないわけで、私たちは、そうではなく、これから勉強して育てていきたい"音楽家”を求めているのだ。

舞台に出てきて、
<私は、こんなに表現したいことがあるんです、こんなにこの曲を愛していて、
こういうことを伝えたいんです!>

そういうものにあふれた演奏。それが目を覚まし、私たちを動かす
私たちは、<表現をする芸術>をめざしている。メッセージを<伝える芸術>。
繰り返すが、”弾く”のではなく“伝える”芸術。

このことを強く意識してもらえたらと思う。

2007年2月 2日

~意味のある練習を学ぶ~  取ったら返す

自由な演奏と不安定な演奏。この二つは、紙一重で隣り合っている。
ちょっとしたことで、大きな勘違いということになってしまう。

この二つの違いにかかわる一番大きな要素は何か。

それは、“脈”。

生きるものすべてにある、この“心臓”は、音楽にもあり、不可欠なもの。
ただ、音楽での大きな違いは、生き物や、時の流れのように、<定期的に>、<規則正しく>打つわけではないということ。音楽では、この脈が上手に伸び縮みをしながら、”自然に“流れていかなければならない。

<イン テンポ>とは何だろう。一定の速度で弾く、ということではない。音楽での<時間>は

“絶対的”ではなく”相対的“に流れるから。

少し言葉が難しいかな。

相対的ということを、簡単に説明してみよう。たとえば、今自分に5分間あるとする。この5分、<遊んできていいよ>といわれても、あっという間に過ぎてしまう。でも、おばけがでそうな、すごい不気味な場所に<ここに5分間いなさい>といわれたら、きっと長いと感じるでしょう。同じ5分が長く感じたり、短く感じたりすること、これが”相対的”ということ。

音楽での"インテンポ“は、聴いている人に、脈が<自然にながれている様に>さえ感じさせればいいのである。

ちょっと面白い例を挙げてみよう。緊迫感のある部分があり、その後、落ち着いたメロディーが来るとする。あなたなら、時間をどう使う?

緊迫しているところは、少し前にすすんで、ほっとするところでは、幅を広めにゆったり弾く?
それとも、
緊迫しているところに、時間を多めにかけて、緊張が取れたところで、音楽を前に進める?

どっちが正しいだろうか。


<どちらも正しい>のです!


これこそが、”個性”ということ。同じ緊張感をどう表現するかは、個人の自由だから。

このように”伸び縮み”をしながら、実際は気持ちよく脈が進んでいくように聞かせるのである。しかし、気持ちよく進んでいく場合、横にメトロノームを置いてみたら、絶対といって良いほどずれていく。これは、さっき説明した”相対的”ということを考えれば当然のこと。一定に流れているかの<様に>感じさせているだけなのだから。この時間の<伸び縮み>をいかに必要に応じて使えるかが鍵となる。

伸び縮みをどう使うかは、音楽の緊張感が大きく作用する。どこがどの程度緊張しているのかを知るには、ハーモニーの動きを理解することが、不可欠になる。このことをブログで短く説明するのはかなり難しいので、残念ながら書かないが、感覚や本能で弾くだけではなく、ハーモニーや、ハーモニーの変化が生み出すリズムを知り、それをうまく生かしていくことは、避けられない。

難しい話は置いておいて、1つだけ覚えていてほしいことがある。 

-借りたら返す-

ということ。ルバートということばの語源は、ラテン語で "取る、盗む”ということらしい。
時間を前の音から”取る”。とって次の音を少し長くした分、また前に進む。つまり、時間を"返す”のである。

取ったり、返したり・・・つまり、これこそが<伸び縮み>を生みだす。
自由に弾こうと、時間を<取りっぱなしに>するから、<伸び縮み>ではなく<伸びっぱなし>になる。反対も同じ。そして、音楽が不安定になってしまうのである。取ったら返そう!

2007年1月24日

~意味のある練習に向けて~ <ペダル>

ぱったんぱったん、どっかんどっかん・・・。レッスン室に、ときたま鳴り響く音・・。この騒音は、そう、

<ペダル>

工事現場かここは・・(-_-#)


前回のブログでかいた、Give and Take。ペダルでも、まったく同じく:

1) 足がペダルと”接触”状態にあること。
2) 踏んだ後の戻し方にも十分に意識を払うこと

が不可欠である。

ところが、緊張すると足がペダルの底までしっかり入りそのまま動かない、という車でいうブレーキの役割になってしまうケースが多々ある。

実際には、ペダルの底に達するまでには、踏み入れる“段階”が無数にある。(ウナコルダも同じ。)一番底まで踏むことは、とても“まれ”だと思ってほしい。(底のほうまで踏まないと全然きいてくれない、という調整の悪いピアノの場合はもちろん別だけど。)

ためしに、ダンパー(ピアノの弦の上側にあるやわらかい綿)を見ながら本当にゆっくりゆっくりとペダルを踏んでみて欲しい。しつこいが、ゆっくりゆっくり踏み入れる。
ある時点でダンパーがそっと弦から離れ始める点がある。この瞬間を足でつかむ。ダンパーが弦から離れる瞬間こそペダルがかかり始める点だからである。この点を足のどこでつかむかというと、足の指の付け根よりもう2-3センチ下にある硬い部分。ここが一番微妙なコントロールがし易いため。ここで、ペダルがきき始める地点をすばやく捕らえて、あとはその前後(上下)ほんの少しの間でペダルを踏んだりあげたりする。それがほぼ80%のペダルの使い方。

ピアノの調整によっては、かなり深く踏み込まないとダンパーがあがらないペダルがある。この場合、いくら上っ面のほうでこまめに踏み変えても、無意味ということになる。

もうひとつ、コントロールのために必要なのが、かかと。かかとが浮いてしまっては、コントロールがしづらい。女性の場合、演奏会用の靴にヒールがあるのは当然だけど、あまりヒールが高いもの、あるいはかかとが異常に細く滑りやすい靴はペダルのコントロールの妨げになるので注意してほしい。かかとが"支点”として、軸になっている必要があるためである。

これらのことは、わかっている人が多いと思うが、音の多いところ、難しいところ、盛り上がったところなどになると、意外とペダルへの意識が薄くなり、"踏む” “はずす”というOnかOffかになってしまう。また意外に多いのが、緊張などで、ペダルの戻りにまで意識が行かず、乱暴にはずしてしまい、ペダルが激しく戻るときのかなり大きな雑音を生んでしまっているケース。せっかく指で美しい音を作り出してもペダルのせいで騒音になってしまうのである。

美しい音質の邪魔になる騒音が3つある。

1) ペダル(とくに乱暴に戻すとき)
2) 鍵盤に指があたる音(高いところから打鍵するため)
3) 鍵盤の底に指が当たる音 (必要以上にあたるため)

この3つを避けなければいけない。

ペダルは何のために踏むのか。
それは

"色”のため。

音を伸ばすためでも、弾けていないところを隠すためでもなく、
ペダルをつけるからこそできる”色”がある。その意識で使ってみて欲しい。

2007年1月16日

~意味のある練習に向けて~  <Give and Take!>

ピアノを弾くこと=鍵盤をおろすこと   

ではない。

ペダルをつかう=ペダルを踏み込む 

ことでもない。


どうしても、弾く、踏む、という“Give”的な方向にばかり意識がいってしまうことが多い。でも、“踏む” なり “弾く”なりしたものの“後始末”をすることがいかに大切かと言うことを忘れてしまう。

考えてみれば、
部屋の片付けでもそう:出したらしまう。
会話でも:話し手にも聞き手にもなる
そして
恋愛では、7押して3引くんだそうな。(昔、同級生だった 軽~~~いノリの男の子が言っていた。笑)

↑全然参考にならない? (^^♪

いや・・・私が言いたかったのは、鍵盤をおろすことだけに注意を払うのではなく、下がった鍵盤をどう戻すか、ということに意識を持っていることの大切さ。ペダルも同じ。どうあげるか。

鍵盤をおろす。でも、それ以上いくら押しても意味がない。
ある公開レッスンで、

―音を歌わせるために、鍵盤の底に着いたら、そのまま指をヴィブラートさせて・・

といって鍵盤の底で指をぷるぷるさせていた人もいたっけ。 


だから、何も変わらないってば!


エェー、コホンッ!(;-o-)o” 失礼・・・

そうではなく、鍵盤をおろしたらそれをどう戻すか、ということにも強い意識を持ってほしい。

1本の指で鍵盤をおろす。そしてゆっくりと指を緩めると、鍵盤は自然とあがってくる。(決して指で“あげる”のではない。緩めるとあがって来る。これはすごく大切なこと!!)あがってくるスピードを指先で感じることで、そのピアノのアクションの具合が分かる。重いピアノ、軽いピアノ、と一般的に表現されるあの感覚である。たとえば、ゆっくりあがってくるということは、そのピアノは重く感じる。これをいかに瞬時に指先で感じ取ることができるかで、本番など前もって触ることのできない楽器で弾く場合にも、ある程度恐れずに弾くことができる。

大きい音を出したい、だから思いっきり弾く・・のでは、思った音が作り出せない。硬すぎて騒音になるか、がんばった割にはもの足りないなどとなってしまう。

鍵盤の戻りがどれぐらいの速さだから、それに対してこれぐらい・・という“必要な速さ”がある。それを入れる。それが “弾く“ことの基本。闇雲(やみくも)に早く打鍵したり、ピアニッシモにしたいからそっと打鍵しても、ぼこぼこの演奏になってしまうだけ。

また、戻りをコントロールするということは、<音の切れるところ>を自分で作る、ということにもなる。鍵盤を下げて、ゆっくりと戻しながら、ダンパー(弦の上にある白い綿たち)を見てみると良い。鍵盤をゆっくり戻すにつれて、ダンパーが弦の上に降りる。降りた瞬間に音が切れる。これも自分で”作り出し”ていなければいけない。ピアノは音が“出る”のでも"切れる”のでもなく、演奏者自身の手で、音を"作り”、”切る”のである。

<鍵盤の戻りを感じ、必要とされている速さと量を必要なタイミングで入れる。>

そのために、指先(指の腹の部分)の鋭敏な感覚を育てることと、鍵盤との絶え間ない接触が必要となる。

鍵盤との絶え間ない接触・・・難しい響きだけど、要するに 

近くから弾く

この言葉ならよく耳にしていると思う。近くから弾くように、といわれるわけは、これで少し分かってもらえただろうか。

ペダルもまったく同じ原理。Give and Take!
これについては次回のブログで書いてみよう。

2007年1月10日

~意味のある練習に向けて~ <親指>

手をじっと見つめると、“あなた、生えてくるところ間違えたんじゃない?”とつぶやきたくなってしまうのが親指。この指だけが、なぜか手のかなり下のほうから生えている。
足の指なんて5本ともそろっているのに・・・笑


こんなに短く、しかも引っ込んだところから出ているのに、遠慮がちかと思いきや、この親指こそが、私たちの演奏に大きく左右する主なのである。

親指の使い方に関しては、いろいろ既に先生たちから言われていると思うので、私は、他の視点から書こうと思う。


手首が高い、と言われたことはないだろうか。私の生徒たちで最近よく見る問題の1つが、手首が高く、手の甲がつぶれている形の弾き方。もちろん、形から入ることが大切なわけではないので、最終的に思うような音が出せるのならこだわらなくていいとは思うのだけど、大半の場合は、そのせいで演奏の妨げになってしまっている。

―手の甲を山型にして、手首を下げてね。

こう伝えたところで当然直るものではない。私も昔、手首がかなり高く、下げようとすると、どうしても不自然になって苦労した。鏡を横に置いて、外見からは良さそうなポジションにしてみても、体の感覚としては、どうも不自然に感じられる。これでは外見から直しても無理だと思い、何が原因で手首が上がってしまうのか、“犯人”を探すことにした。

そして、長い道のりを経て見つけたのが親指。この指が木の棒のようになってしまっていたのだ。つまり、親指がまっすぐ受身で“待っている”状態になり、腕から押すことで、手が鍵盤に近づき、指が鍵盤を押すので音が鳴る、という具合になってしまっていた。

こうなると、どういうことになるかというと・・・

親指が受身になる→親指と小指を結ぶ手のひら側のラインの支えがなくなる→手のひらを支える橋がなくなり手の甲がつぶれてしまう。

実際は親指が腕で押されて弾くのではなく、指自身で弾く必要がある。親指を他の指と同様、付け根(親指の場合は手首のところ)から使おうとすると、手首が自然と降りてくる。手首が高いと、”突く”しかない状態なのだ。それが分かって、親指への意識をかなり高めて練習しているうちに、不思議と手首が降りてきた。<下げる>のではなく、<降りてきた>。だからとても自然に感じられる。こうなることで、親指と小指を結ぶ線の手のひら側の支え(これが本当に大事!橋の橋脚のような役割になるため)ができ、手の甲も支えられると言うわけ。

手首を下げようとするのではなく、なぜあがってしまうのかを考える。
いつだったかのブログに書いた、“犯人探し”は、ここでも役に立ったと言うわけだ。

むむむ、親指め。あなどれない・・・

2007年1月 4日

~意味のある練習に向けて~ レガート(2)<歩くこと>を考える

歩く。どうやって歩いている? そんなこと考えたことなかった。

右足が地面をつかみ、左足が前に出て、その足が地面をつかんだ時点でさっきの右足が地面から離れる。
簡単なようで、とても複雑なことを、実はなんにも考えずに普段からしている私たちってすごい!

でもこれって、ピアノのレガートとまったく同じなんです。

前回のブログではなした 五つの音のレガート。”言葉“と比較することでレガートと言う感覚を説明したが、今日は ”歩くこと“を考えることで、実際に指で行っていることを説明してみたい。

歩くこと・・・上記に書いたように、歩くとき、私たちは右足と左足の見事な受け渡しで、前へ前へ円を描くように足を次々と出していく。反対に“すり足”で歩くことをイメージしたら”円を描くよう“という表現は分かってもらえると思う。

ところがピアノになると、レガートを弾きたいと思うがゆえに、1つの音を弾くと、その指を爪が白くなるぐらい鍵盤にしっかり押して、次の指が来るまでしがみついているというのをよく見かける。

でも、足の場合を考えてみる。歩くとき、地面を捉えた足は、そのまま地面にしがみついてはいない。足が地面と接触して、離れないだけで、ふんばってはいない。足の指も、がんばってはいない。ただ、その足には自然な体の重さが乗っているので、足をぐにゃぐにゃにすると倒れてしまう。だから倒れない程度に、足の裏が地面を感じて支えている。

指もまったく同じ。弾いたら次の足である“指”が来るまで、鍵盤とのコンタクトを保っていればいいだけ。しがみつく必要はなく、自然な重さを今弾いている指の腹にのせて、指が崩れないように鍵盤を感じながら支えていれば十分だ。

歩くことに戻ってみよう。次の足が来る。次の足が地面を捉えた瞬間、前の足は地面から離れている。離れているだけでなく、離れたと同時に次の一歩へむけてもう準備に入っている。

ここでも指はまったく同じことをする必要がある。ところがある音を弾いてから、次の音の準備に入ってしまう人がとてもが多い。つまり、ある音を弾いてから、その次の指の準備をする。そうすると、ジェスチャーがひとつ余計に入ることになり、ギクシャクしてしまう。

分かりやすいように、たとえば右手の2,3,4の指で順番にレミファとレガートで弾くとする。

2の指(レ)を弾いたと<同時に>、既に3の指の準備ができている必要がある。レを弾いてから、よいしょと3の指をあげていては遅い。2の指を弾いたと<同時に>3の指を上げる。確認してみてほしい。これって以外とできていないもの。

その次、3の指でミを弾くときが大事。ミを弾いた<瞬間>にしていなければならないことが3つある。

1)2の指を即座に緩める。
2)今弾いた3の指を、打鍵したと同時に緩める。この際、指の腹はと鍵盤とのコンタクトを感じているだけで、必要以上に押し付けない。
3)4の指(ファ)を準備する。

繰り返しになるが、これらが、ミを弾いた“瞬間”に、一度に<全部!!>できていないといけない。

1)ができていないと、歩くときに、次の足がもう地面についているのに、前の足もまだ引きずっていることになる。
2)ができていないと、いちいち地面に足を貼り付けて、ふんばりながら歩いていることになる。
そして
3)ができていないと、転んでしまう。

歩くことに例えると、簡単にイメージできると思う。歩くときと同様、前の足(指)から次の足(指)への受け渡しを、決して動きをとめることなく、円を描くように円滑に続けなければいけない。

そしてもうひとつ。歩くとき、次の足が地面に着く<直前>まで、その前の足に重心がまだ乗っているのはわかるだろうか。指でも同じ。次の指を準備はするものの、弾く瞬間までその前の指に重心を乗せている。そして、少しずつ次の指に移すのではなく、“一度”に移す。そうでないと、はっきりと次の音が発音されず、もやもやと口の中で言葉を話しているのと同じことになってしまう。

ここまで、2回にわたってレガートについて説明してみた。こうやって文章にするととてもややこしく感じられるかもしれない。でも家で歩いてみて、どうやって足を運んでいるか是非自分で見てほしい。完璧な足のレガートを。

歩くこと、話すこと。日常生活を見れば、レガートは誰もが自然にできていること。レガート教えてくれる先生は、ほかでもない、自分の体にあるのです!

2007年1月 3日

~意味のある練習に向けて~ レガート(1)<こんにちは>から学ぶ

レガート・・・これは、私たちにとって永遠の課題だ。
レガートができない生徒が本当に多く、これをどうやって伝えたら一番分かりやすいか、長年頭を悩ませているというのが本音。まだ模索の途中ではあるが、今の時点で一番しっくりくる方法で説明してみよう。

レガートとは何か。ちょっとピアノを離れてみよう。日常生活に目を向けたとき、”完璧な“レガートと言えることを私たちは、なんてことなく誰もがおこなっている。それは

1) 言葉を話すこと
そして
2) 歩くこと。

今日はまず ”言葉“の例で、レガートととはどういうことかを説明してみよう。

<こんにちは>と発音してみる。これは完璧なレガート。みごとになめらかにつながっている。でも、なめらかにつなげているのに、こ、ん、に、ち、は という五つのことばは1つずつきちんと発音している。

そして、1つずつきちんと発音しているが、決して<棒読み>ではない。言葉がなめらかな<曲線>を描いているのは自然と分かるだろう。

ピアノでも同じこと。ドレミファソでレガートをするとしよう。

“滑らかにつなぐために、前の音を少し残して次の音を弾く”

という人がいる。
でも、そんなことは、言葉ではしていない。<こ>と<ん>や<ん>と<に>を一緒になんて言っていない(いえない・・・笑)のに、見事なレガートになっている。つまり第1にレガートの基本は


<一つずつの音をきちんと発音する>


滑らかにしたいために、ふにゃっとした音を出したり、次の音を重ねて弾いていても、きれいなレガートになるわけではない。言葉と同じで、一つ一つをはっきり発音しないと、何を言っているかわからない。

次に、<こんにちは>をまず、棒読みで発音してみて、それから正しく発音してみると分かると思うが、ほんの少しではあるが“にち”あたりに向かっていて、”は“で閉じている。つまり第2のポイントは


<決して五つの音を ”平ら“には発音していない。>


音と音を結ぶ線が<曲線>を描かなければいけない。五つ平等につなげばいいというわけではなく、そうすると言葉で言う“棒読み”と同じ結果になってしまう。

そして、もうひとつ、とても大切なポイント。
<こんにちは>に戻ってみると:
“こ”と発音した後、次の“ん”を発音するまで“こ”を責任もって発音していることに意識をしてみてほしい。“ん”が来るぎりぎりまで、“こ”といい続けている。同じように“に”というまで “ん”を発音している。かならず次の音が来るまで、前の言葉を発音し続けている。ここで第3のポイント


<発音した音を次の音が来るまで聴き、運び続ける>

ここで問題になるのが、ピアノという楽器。弦楽器や、管楽器、歌であれば、息や弓を使って次の音まで運び続けることができる。でもピアノは一度出した音は、だんだん小さくなっていく。

そこで ”耳“の出番!!!

出した音を耳で追って、消えていくその音に段差がつかないように次の音をおいていく。段差がなければいいのだから、必ずしもその前の消えていく音より小さい音を弾く必要はない。大きめの音を重ねることだって当然できる。大事なことは、

―音と音を結ぶ線が、曲線を描くこと。

次の音をいくら気をつけても、耳が今出ている音から離れてしまった時点で、決してつながらない。前回のブログのように、”一つ前の音が鍵”というのがここでも言える。耳の意識が前の音から離れてしまうと、

 こっんっにっちっはっ

と、とぎれとぎれに言っているようになってしまうか、こ”ん”にちは。や、こん”に”ちは といったように、へんなイントネーションの言葉になってしまう。

レガートという“感覚”を言葉に置き換えてみることで、少しは身近に感じられるのではないかな。部屋にこもって“こんにちは”と何回かつぶやいてみてほしい。きれいなレガートでしょう!

次回のブログで続けて、今度は ”歩くこと“を通して,レガートを実現するテクニックを説明してみたい。

2006年12月18日

~意味のある練習に向けて~  ―<だめ>を試す―

こんなに、時間をとってもいいのですか?

これは、硬すぎませんか?

これだと小さすぎるのでは・・・

これ、音色変わってますか?

こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。

“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。

こんなケースに私が言うこと:

<だめ>なことを試してみればいいじゃん!

固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。

スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。

少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。

まずは、これが"普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。

<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。

<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、"安全”という窮屈な思いをしていないかな。

音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。

2006年12月15日

~意味のある練習に向けて~  ―カギは一つ前の音―

この12月から、MessageFromBerlinと題して、日本でプライベートレッスンを開始させていただいた。レッスンでは私の方がたくさんのことを生徒さんから学ばせてもらえて、非常に楽しみにしている。

これにあわせて、ブログ上でも私の日ごろの模索から気がついたことを、書いてみようかなと思いついた。勉強の過程での“思いつき”だから、また10年後には違うことを書いているかもしれない。でも、ま、それもいいかなと・・・。

というわけで、今回のテーマは、“鍵は一つ前の音”。

私の生徒を見ていて、特に多く見られることの一つは、”できないところを何度もただ繰り返して練習する“こと。これは、とても危険なことだと思う。”このへん“が弾けない、という場所を繰り返して弾くうちに、なんとなく正しく弾ける確率が増えてくるので、”弾けるようになってきた“と解釈して次へ進む。そりゃ、誰でも何回も繰り返したらその瞬間は、正しい音に命中する確率は増えますって。

ところが、翌日にはまた大体しか弾けず、
“先生、いつまでたってもここが弾けるようになりません”
ということになる。

たまに、

“先生、ここ、どうしても汚くなるんでどうにかしてください”
という人もいる。美容院か、私は・・・

練習をする上で、不可欠なことは、“原因を突き止める”こと。“このあたり”が弾けないのではなく、はっきりと“どの音”が原因なのか。大半の場合、ひとつ "こいつのせいだ!“という犯人が潜んでいる。私も、自分の練習で弾けないパッセージを見つけると、まず犯人捜しに取り掛かる。この犯人、なかなか手ごわい。となりの音に濡れ衣を着せている場合が多い。ふっふっふっ、みつけたぞ。お前だなあー犯人は。
みたいな、とても怪しい練習をしている私・・・。

たとえば、右手の親指で真ん中の”ド“を弾き、すぐに小指で2オクターブうえの”ド“を
弾かなければいけないとする。
よくレッスン中に見る光景が、この2音を弾いて、飛んだ先の小指をはずしてしまい、生徒はそのまま、はずしてしまった、上の“ド”を、
にっくきヤツ、あんなに練習したのに、こいつこいつーとばかりに、“ドドドドドド”と連打。そして、そのまま先に進んでしまうのである。

あら・・・

上の“ド”は、大半の場合、無実です。かわいそうに・・・。
で、誰のせいかといえば、いろいろ可能性はあると思いますが、

(1)飛ぶ前の最初の“ド”。飛ぶことに頭が行ってしまい、この“ド”をちゃんと弾かないまま飛ぼうとすると、それは地面をちゃんと蹴らないがうえにできない鉄棒の<逆上がり>みたいなもので。

(2)二つの“ド”の間の“移動係”。えらい怠け者のせいで、移動が遅い。

ただ、(2)は、(1)が原因になって移動が<遅くなってしまう>ことが多いので、やっぱり犯人は(1)かな。

などと、考える作業が、練習の一番の基本。やみくもに弾く前に、考える。それから、それに見合った練習方法を考える。

大半の場合、”弾けない”箇所、つまりよくはずしてしまう箇所は、その”一つ前“の音が原因のことが多い。ということは、念頭においてほしい。考えずに、同じ場所を繰り返し弾くことは、
間違えたテクニックを体に記憶させてしまうことにもなり、弾けるようにならないだけでなくて、逆効果にすらなってしまう。事態を悪化させる可能性が高いので、とても気をつけてほしいと思っている。

私がよく言うことの一つ、

”がまんする”ということを覚えてほしい。
弾いてしまわず、ちょっとまって考えること。

“一つ前がカギ”

これは、”音色を変える”
場合にもいえる。
よく、

―そこ、もっと変えて―

と言われることが私もあった。ただ、変えてと言われても、え、どうやって・・・みたいな。私も随分頭を悩ませた。色を変えるためには、思ってるよりもたくさんの手段がある。これは、また次回以降のブログにまわすとして、その“たくさんの手段”のなかの一つが“一つ前の音”になるということだけ書いておきたいと思う。

色を変えるということは、どういうこと?

<変える>

つまり、これは<何かに比べて>変わっている必要がある。つまり少なくとも、二つの音がなければ ”変わった”ことにはならない。変えたいと思う音だけを一生懸命、あぁでもないこぅでもないと、弾いていても、仕方ないわけで、もっとも単純に言ってしまえば、その<前の音>と変わっていれば、色が変わったことになるということ。つまり、前の音がカギになる。前の音を責任を持って作る、聴く。このことがポイントになる。どうしても、変えようと思う音のほうに意識が言ってしまうせいで、その前がないがしろになることが多い気がする。

もう一つ、”休符“。

―休符に緊張感をもって-

これもまた、私も苦労をしたシロモノ。
あるとき、<休符に緊張感ってどうやったらできると思う?>と生徒の1人に聞いてみた。

―えっと、体も動かさないとか?-

といってその彼女は両手に、にぎりこぶしを作り、表情もみじんも動かない様子を見せてくれた。

・・・・・それって、あなた自身が緊張してるだけでしょぉ・・・(-_-#)

と、からかってみたものの、休符に命を吹き込むことは難しいことの一つ。

たとえば、お芝居で

“ねえ、きいて”

という台本をもらったとする。その後に来る文章が、どうでもいい話の場合には、

ねーきいてよぉー、彼氏がサーぁ・・・

みたいに、語尾がだらっとなるのではないかな。男の子なら、”俺サー“みたいな。

でも、なにかとても緊張した話のとき、“ね、きいてっ!!!”って私なら言うかな。

同じセリフでも、どう言葉の終わりを処理するかで、その後にくる緊張感が変わる。
まったく同じことがピアノでも言えると思う。

休符の一つ前の音。これをどう切るか。ペダルに任せず、自分で責任を持って切る。これだけでも、そのあとにある休符に命が吹き込まれる。

休符は、音の一つだと思ってほしいと、いつも生徒に言っている。休みではない。

私のレッスンのモットーは、

“どうやって”

も説明すること。深い音出して、暗い音出して、という指示だけでは、最初のうちは難しいと思う。そのためにどうすれば良いか、これを生徒と知り合って最初のうちは説明することが必要だと思っている。ただ、それはかなり難しいこと。これからの課題でもある。がんばろう・・・

MessageFromBerlinプライベートレッスン、もうすぐ12月コース終了。次回は3月。
がんばって勉強しなきゃ。