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2008年06月24日

親指 (2)

以前、親指について書いたことがあった。太くて短いにもかかわらず非常に大切で、使い方がかなり難しい。だけど、親指の使い方って、あの時もそうだったけど、意外に意識的に勉強されていないと今も感じる。

でも私はこの親指殿を

<おぬし、侮れ(あなどれ)ぬヤツめ>・・ヽ(`○´)/


と思っているので、(←勝手な闘争心)今回は、普段あまり意識していない親指の使い方を書いてみたい。

親指って、黒鍵を弾く時と白鍵を弾く時、実は<第一関節から先で違う使い方をする>って意識したことある人はどれぐらいいるだろう。

黒鍵を弾く時は、誰でも自然と鍵盤に対して角度が斜めに入るように親指を置く。つまり第一関節から先は、特に内側に曲げることなく、指を“ほぼ”まっすぐに近い状態で使っている。この理由は、黒鍵の鍵盤自体の幅が狭いことを考えると、自然なことだ。

ところが、白鍵で同じ様に使うと、やってみればわかるが、隣の鍵盤も一緒に弾いてしまうことになる。そのために、白鍵を親指で弾く場合には、第一関節から先を内側に曲げたうえで、少し立て気味にし、指先より少しずれた角(かど)の部分を使ってひかなければいけない。

たとえば右手の親指で、半音階で上がってみればすぐわかる。ド、ド#、レ、レ#、ミと
弾いてよう。すべての音を親指を黒鍵を弾く時の形のまま弾こうとすると、非常にもたもたするうえに白鍵の時、隣りの音を触ってしまうだろう。

上記に説明した黒鍵での<親指の第一関節から先>の使い方を“横”、白鍵での使い方を"縦”と表現すると、ド、ド#、レ、レ#、ミを弾く時は、縦-横-縦-横-縦と使うことになり、これをうまく使うと、かなり素早く移動できる。

ついでに書いておくと、オクターヴでの音階などをすばやく弾くのが苦手な人の場合、ほとんどが親指が原因のことが多い。オクターヴの早い音階は、まず親指だけを練習するのが必須だ。その時次の二つのことに気をつけてほしい。

1) 親指の”縦”、”横”を意識的に使う。
2) その際、黒鍵と白鍵のできるだけ境目のあたりを弾く。先ほどのド、ド#、レ、レ#、ミで、右手の場合、白鍵のド、レ、ミを弾く時、黒鍵に近いところを弾くようにすると速い移動ができる。つまり、できる限り親指が鍵盤の奥に行ったり手前に来たり・・・と移動範囲が大きくならないようにする。

むむむ・・・親指殿、奥が深いな、おぬし。(-o-)


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2008年06月11日

画用紙からはみ出したクレヨンの絵、きれいに書かれた鉛筆の下書き

レッスンってなんだろう。
私の役割ってなんだろう。そんなことをふと考える時期がある。

私が、レッスンで生徒さんから持ってきてもらいたいものは、もしこの2つの絵に例えると、どちらだろうか。

1)画用紙にきれいに描かれた下書きの絵。

それとも、

2)勢いあまって、画用紙からはみ出してしまっている、クレヨンの絵。

それは、 2)である。

でも実際は、きちんと整えられた下書きの絵を持ってきて、・・これにきれいに色をつけてください・・・とばかりに、レッスンで遠慮がちに弾いてくれる人が意外と多い。もちろん、それはそれで、色をつければ、絵になるだろう。

でも、それは”私”の絵でしかない。

私が欲しいのは生徒さん自身から出てくる絵。はみ出していても良い、斬新でも良い。整っていなくても良い。

伝えたい何かさえあれば。

もちろん、何を書いても良いというわけではない。音楽には、作曲家という生みの親がいる。私たちは演奏家の使命は、作曲家が紙の上に残した音に、命を吹き込むこと。

だから、好きなことをして良いというわけではない。生みの親が、"家“をテーマとしていたら、それは家でなければいけない。木の家なら木の家でなければいけない。でも、それさえ守っていれば、そこから、私たちの想像力をたくさん取り交ぜることができるのだ。

どんな大きさの家? どんな形?
丘の上にある? 森の中にある? それとも、都会?
お昼の家の様子? それとも夜? 
その家には、誰か住んでるの? 

・・・それは、私たちが想像をふくらませて良い場所なのだ。それこそが、個性。
個性、というものを“好きなように演奏して良い”・・と勘違いしている場合もある。でも、それは違う。家は家でなければいけない。つまり、楽譜に書いてあることには、忠実にならなければいけない。

その上で、自分で精いっぱい想像力をはたらかせて、自分にしか書けない絵を、自分にしかできない音楽を持ってきてほしい。そして、私は1観客の目、耳として、こうしたほうがもっと伝わるかもね、と、一緒に考えて、より作品をその子の伝えたいものに近づけることができたら、一番幸せだと思っている。

ちょっとぐらい、はみ出していても良い。だから、<自分にしか描けない絵>を持ってきてもらいたい・・。


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2008年05月18日

プールから学ぶ (3)  硬い音

このテーマは、ずいぶん長いこと考えている。いまだにはっきりとした結論が出ていないのだけど、模索途中として書いてみたい。

音が“硬い”・・・と表現するけれど、

みなさん、どうしたらピアノって 固い音が出るんでしょう・・。(・_・;)

私も答えがわかるわけではなく、目下考えているところです、ハイ。汗
指を固めているから・・という説明も聞くけど、実際は音はハンマーが弦を叩いて鳴るわけで、どんな風に打鍵しようが、音を出すのはハンマーだから、指を固くしなければ良い・・という問題ではない気がする。

今の時点で、考えているのは、プールでの飛び込み。(←相変わらず、ぶっ飛んだ例だけど)
私の小学校の先生は、良く生徒をもちあげて、プールに放り込んでいた。(いいのか?笑)
私も放り投げられたのだけど、その時、おなかや背中から水面に落ちた時の痛いこと!!!
バッチーン!!!という音とともに、めちゃめちゃ痛い。

高いところから飛び込みをするのを見たことがあるけど、その場合誰もおなかや背中から水に入らない。指先から、できるだけ細い面積で水に入っていく。

話を変えて、拍手をする時。誰も、両手の手のひら同士をまっ平らにして、左右合わせてはたたかないだろう。そうすると、てのひらが一気に痛くなる。少し手のひらを丸めるようにしてたたく。

この3つの例から思ったことは、平面と平面が面積が広くあたると痛いということ。それは、二つの平面がぶつかり合ってしまうから。

ハンマーは柔らかいもので包まれている。でも、たくさん弾けば弾くほど、ハンマーがいつもあたる弦の場所がへこんできて、溝のようになる。その部分は、かなり硬い<踏み固められた土>のようになっていると思う。そこに、ばんっと金属の弦があたれば、相当固い音が出るのは想像できる。

だから、打鍵を必要以上に早くすると、平面同士が衝突して、硬い音が出ているんじゃないだろうか・・・と思っている。それを避けるために、できる限り必要な点だけを弦に当てる。つまり、ハンマーが弦に当たったら、すぐに解放しないといけない。そのためには、たとえ大きな音でも、微妙なコントロールが必要になる。いつもブログで書いている指先でのコントロール。
だから、ある意味、指を固くしない・・・という表現も間違いではない気がする。

たとえば古い弾きつぶされた楽器。たまに、いくらコントロールしてもどうしても金属音になってしまう時がある。それは、
ハンマーの溝が踏み固められて、かっちかちになってるんじゃないだろうか。それと同時に、必要以上に押し込む打鍵をすると、ハンマーに弦が食い込むから、響きが止まってしまうというのももちろんあると思うけど。

うーん、今の私に考えられるのはこんな感じ。
なにかほかの意見があったら是非知りたいところだな・・・。


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2008年03月16日

プールから学ぶ?! (2)  ミニ・ビート板

弱く深みのある和音で曲を始める・・・とくに緊張しているときなど、本当に難しい。
ぼかんと思わぬ大きな音が出てしまったり、逆に鳴り損ねてしまったり。誰にでもある経験だろう。

まず、解決策を考える前に、どうなることでこのアクシデントが起きているかを考えてみたい。これまでのブログでも何度か触れたように、ピアノという楽器はハンマーが弦をたたくことで音となる。ハンマーが思ったより速くあるいは強くあたり過ぎたり、あるいは逆にあたり損なったりしてしまうことで、鳴り損ねや鳴りすぎということが起きる。

もちろんピアノを弾く時に、どれほどの速度で、どういうタイミングで・・・といちいち考えて計算しているわけではない。それをある程度自動的に感じられるようにするために、普段から“意味のある練習”を通して、感覚を体に染み込ませていくのだ。

今回のテーマである“静かに、そして深く豊かな音”を得るためには、完璧な打鍵のタイミングをわかっていることが必要となる。打鍵というのは、鍵盤が“底にあたって”初めてできるわけだから、そのタイミングをつかむためには、鍵盤が降りるときの鍵盤の重さ、つまり鍵盤が上に戻ろうとする力を指先で感じている必要がある。鍵盤が戻ろうとする力を感じながら、それに見合った速度で鍵盤を下ろし打鍵をする。

ゆっくりとした深い丸みのある温かい音。たとえば、ベートーヴェン作品110の1楽章の始め、あるいは作品109の3楽章の始め、あるいはショパンのバラード4番の出だしなどなど。ぷるぷるっと震えてしまうのも稀ではない。
こういう時に、安心して弾けるための、<指先が捉えている鍵盤の感覚>を、今回は理屈ではなく感覚で説明してみたい。


プールで泳ぎを覚え始めのころに使うビート板。これを使ったことがある人は多いだろう。もしもなければ、発泡スチロールの板でも良い。これをちっちゃく5センチ四方ぐらいに切ったところをイメージしてほしい。イメージで十分!
これが、私の言うミニビート板。(^。^)

これを持ってお風呂か何かで、湯船につかっているところをイメージしてみよう。お湯にミニビート板を浮かべて、それを人差し指と中指の指の腹だけを使って、お湯の中に5センチほど静めるとする。手首や腕に無理をせず、ミニビート板が斜めにならないように、指の力でぐっと水面5センチぐらいの深さに沈める。すると水圧が指先にかかって、ミニビート板が押し戻されそうになるので、それに負けないように、そしてビート板が斜めにならないようにぐっと手のひらをしっかりさせて、指の腹で水に沈める感じがわかるのではないかな。

ゆっくりと静かに深い音を出すとき、このお風呂での指先の感覚が非常によく似ている。少し感じがつかめるかな・・・

2008年03月09日

プールから学ぶ?! (1) -ターン-

難しいところが弾きづらい場合、どうして弾きづらいのか、練習に入る前にその原因を探すことが大切だ。様々な難しさがあると思うけれど、ピアノ演奏でよくあることの一つ、大きく素早いポジション移動のときのミスについて書いてみたい。これは主に2つの原因が挙げられると思う。

1) これから来る難しい個所が気になって、目の前の事が不安定になる。
2) 移動に無駄があり遅くなっている。

最初の点については、階段を降りるようなものだ。ふと、先に気が行ったために、目の前の段を踏み外しそうになり、ひやっとすることがある。今弾いている音をきちんと弾くだけでなく、きちんと出した音を耳でキャッチ(聴く)してから次の難しいところを弾くということを常に頭に置いておくだけで、良い意味で演奏に安定感が出る。

2)について詳しく考えてみたい。これは、“速い移動をしなければいけない”という思いから来る間違いで、意外と多い。たとえば左手で、低いバス1音と真ん中あたりの音域の和音を交互に弾かなければいけないとする。バスを弾いて素早く次の和音に移動しなければいけないから・・・と左右への鋭い動きで鍵盤上を右へ左へと反復横とびのように(笑)移動して演奏しようとするケースが良くみられる。
これは本当に一番早い動きなのだろうか。

プールで泳ぐときのターンをイメージしてみよう。壁にタッチしてターンする方法ももちろんあるが、速いのはクロールなどで見る、壁の手前でくるっとするターン(クイックターン)だ。

水泳で壁にタッチしてから向きを変えるのと同じように、左右への鋭い行き来は速いようで実は大きく時間のロスをする。それは方向転換をする時にその向きが180度反対になってしまうので、今向かった速度にブレーキをかけて反対方向に動くことになるからだ。左右にそれを続ければスタートしてはブレーキをかけるという繰り返しになるため大変な運動になる割に速い移動ができない。

少ないエネルギーで一番早く動けるのはどういう時だろうか。

それは“円”を描くこと。

肘を軸にして、腕を回してみよう。左右素早く腕を動かすよりも、肘を中心にして円を描くほうが少ないエネルギーで、楽に早く動かせるのがわかるのではないだろうか。ここで大切なのは、肘を軸にするということ。円を描くということは、軸がないと非常に難しい。
コンパスでも軸がある。アイススケートで同じところで早くぐるぐるまわる演技があるが、これも体の軸が命になると思う。同じことがピアノでも言え、上記の場合ではその軸が肘である。

この“円”の動き、もちろん目に見えないほど鍵盤のそばで小さく行わないといけない。大きな円を描いていては逆効果で、かえって時間ロスになってしまう。自然な動きとは、移動するバスと和音の中間あたりに肘が来るように置き、それを軸として鍵盤の“ほんの”少し上を曲線を描くようにバスを探しに行き、バスを弾くと同時に鍵盤に這うように戻る。這うように行って這うように戻るのではなく、ほんの少~しだけ上に山を描く様にバスを探しに行くというのがポイント。そしてバスを弾いたと同時に真ん中の和音に戻る。その動きを線で描くとすると、横に長~い楕円のような動きだ。もちろん例外もあるのだけれど、概ねの基本はこの動きが利用できるだろう。

ピアノに限らず、楽器を演奏する際、体ができる限り自然な状態に近いほうが良い。バイオリンでも、チェロでも、クラリネットでも・・良く考えてみると、体と楽器が一体になるように、両腕で円を描くように楽器を包み込んでいる。ピアノも同じ。演奏でこの円の原理という自然な動きは本当に良く使う。

ショパンは手が小さい人だった。彼は本当にうまくこの円の動きを使ったテクニックで
曲を書いている。大きな移動に限らず、円のテクニックはショパン演奏の基本だと思う。そう考えてテクニックを探してみると面白いかもしれない。


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2008年01月10日

自分を知る、楽器を知る 最終回(7)  “ぬく”“緩める”という意味

鍵盤を“戻す”こと。これは、前回の“プラス方向”に送ったエネルギーを吸収すればできる。簡単に言うと、エネルギー(自然な重さ+速度)を送り込むのをやめれば、鍵盤は勝手に元の位置に戻ってくる。つまりは、緩めれば戻ってくる。スタッカートにしたければ、鍵盤を早くハンマーにあてて、すばやく戻せばよいわけだから、打鍵の後、“素早く抜けばよい”ということになる。
だから、短い音にしようと必死で上へ指や手をしゃくりあげる必要はない。

この“ゆるめる”ということ。誰もが耳にしていると思うこの言葉。場合によっては、“ぬく”と表現されているかもしれない。ピアノでいう緩める、抜くという状態は実際にはどういうことをいうのだろうか。このことが、本当の意味で正しく解釈されていないことが多いと、あらゆる場面で感じる。

<本当に緩めてしまったら、どうなるか>を考えてみると良いかもしれない。

たとえば、地面に立っているとする。力を入れずに<休め>の姿勢で立っているときをイメージしてみる。この時、すべて緩んでいるだろうか。もちろんそうではない。例えば、足首やひざは緩んでいない。緩めていたら、がくっと倒れてしまう。

ピアノも同じ。本当に手を緩めたら、手が手首からだらんと下がって幽霊みたいな状態になるし、腕を完全に緩めたら、ピアノの上にどたっと腕全部の重さがかかってしまう。

原則11)演奏中に、完全に緩めてしまうことはない。

では私たちが使っている“緩めて“という表現は、どういうことなのだろうか。

それは、”スタンバイ“ができているという状態のこと。次の音、次のポジションへ移動できるスタンバイ状態。

椅子やソファーににどてーっと座っている状態で、さぁ、今から走り出そうと思っても、体が準備できていない。走り出す前の状態、たとえばかけっこでスタートラインに立っているとき、体は固まっていないけれど、足やひざなど必要な部分は、意識が高まって移動できる状態にあるだろう。これと同じで、ピアノでも次に動ける状態というのを”緩める“と表現しているのだ。


原則12)ピアノでの“緩める”ということは、“スタンバイができている”ということ。

1つの音を弾いた後、その指を固めているわけではないが、その指を利用して次にどこにでも動けるスタンバイ状態を作れていないといけない。つまり、適度にしまっていて、同時に柔軟な状態とでもいえるだろうか。わかりやすい感覚としては、
椅子の上から地面に飛び降りた時の両足の状態かな。足を固めていたら着地の時にとても痛い。でもゆるめてしまっていたら足をくじいて倒れてしまう。ばねの利いた状態で、足で地面をとらえ、すぐに飛び降りたエネルギーを吸収している。指の適度にしまった柔軟さは、この足の感覚によく似ていると思う。

これは指だけに限らず、体もおなじ。理想の座り方の状態は、お尻の上にはしっかりと座っているけれど、上半身は、とても軽い状態なのだ。どてっと座っていては、エネルギーを指先に送ることができない。

これまで7回にわたってピアノと人間という二つの楽器について見てきた。ピアノを弾く時に、決してあの機械がああなって、ハンマーがこうなって・・などと考えながら弾いているわけではない。どんな時も、耳が優先。耳から探す。つまり、音やキャラクターのイメージをまず鮮明に頭に描き、それを耳を通して音にしていく。ほしいと思った音が出た時にはじめて、今どういう打鍵をしたのか自分で再確認するというのが、理想的な練習の順番だと思う。

譜読みをして、ある程度弾けるようになってから、キャラクターを考えるのではない。
まず、キャラクターやイメージから入ること。このことはいつでも心の隅に置いておいて欲しい。

その上で、楽器というものの作りをもう一度見直し、理解しておくことは決して無駄ではないと思い、今回の7回にわたるブログを書いてみた。自分にとっての再確認として文章にしてみたのだけど、もしも何かの役に立っていたら嬉しいな。


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2007年12月13日

自分を知る、楽器を知る(6)  プラス方向に弾く

鍵盤を触ったところから、鍵盤の底までの数センチ。この間にどれだけの重さと速度を落とすかで様々な音がでることは、今まで見てきたとおり。この重さと速度を組み合わせたものをエネルギーとここでは呼んでみる。

原則9) ピアノは、下に向かってエネルギ―を送りこむ、いわゆるプラス方向の作業“のみ”で弾く。

当たり前のように聞こえたかもしれないが、実際は音を弱くしたいとか、軽くしたい、やわらかい音が欲しい、などとなると、下に落ちないように、とブレーキをかけたような打鍵をしてしまうケースが非常に多い。こうなると、ピアノを弾く時の基本である<重さを“落とす”>ことができなくなる。

または、短いスタッカートにしたいとき。熱い鍵盤をさわるかのように、ぴょんぴょん撥ねる打鍵を見ることがある。それは、短くしている気になっている“自己満足”でしかなく、本当のコントロールはきかない。

もう少し楽器のことを考えてみよう。

ピアノは指が鳴らしているのではなく、ハンマーが弦をたたいて鳴らしているのだ。そのことを忘れないでほしい。そのハンマーは下から上にあがる。つまり、どんなに軽い音や、弱い音が欲しくても、私たちは鍵盤に対して、エネルギーを下に“送り込む”、つまりプラスの作業をしない限り、理想通りの音にはならない。

弱く弾く、やわらかく弾くというのは、送り込む量を”減らす“マイナスの作業ではない。そうではなく、逆に”少ない“エネルギーを<送り込む>というプラスの作業なのだ。

もっとはっきりと伝えるために、こういう例をあげてみよう。楽譜に四分音符でド、そのあとに八分音符でソの音(先ほどのドのすぐ上のソだとする)が書いてありその後ろに八分休符があるとする。更にそのドとソにスラーがかかっているとイメージしてほしい。それを右手の人差し指でド、右手の小指でソを弾くとする。

言葉だととってもややこしいが、要するに

ドーソッというレガートだ。ソは短め。

実際弾いてみよう。

人差し指でドを弾く時は、鍵盤の底をつかんでいるが、小指を弾く時に手首をあげて、手を(手の甲を)鍵盤のふたの方へ浮かせた人がいるのではないだろうか。

浮かすことがいけないのではない。その方が感じ易ければ、“音の障害になっていない限り”どんな動きをしてもかまわない。ただ、ドーソッというレガートを作りたいという思いから、手をしゃくりあげたのだとしたら、それはレガートにした“つもり”、いわゆる自己満足にしかならない。

ドの時にエネルギーを多く入れ、少なめのエネルギーでソを弾けば、ソの音の方がドに比べて音に勢いが少なくなるので、ドーソッと聞こえる。ソの時は、エネルギーを減らしたのではなく、少ないエネルギーを下向きに入れただけだ。手をしゃくりあげる必要はない。

原則10) ピアノは、いつでも下へと弾く。上に引っ張り上げるのではない。

でも、次の音を弾くために、鍵盤をあげなければならないのではないか、と思った人もいるだろうか?

私たちに、鍵盤を上げることはできない。指先に吸盤でもついてない限り。笑
鍵盤を上げるのではなくて、戻すことならできる。どういうことかわかるかな?

この続きはまた次回に。

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2007年12月10日

自分を知る、楽器を知る(5)  耳の大切さ

残念ながら、数学のように、どの重さにどの速度を足すと、こんな音が出る、という決まりがあるわけはないので、それは自分の欲しい音をイメージして、実際出ている音を耳で判断しながら、どういう種類の打鍵をしたら自分の理想の音に近付くかを探していくことになる。

ただ、参考として、こういうことを言っておこう。

原則7)部品が重くなると、動作が遅くなる。

たとえば、二つの押しボタンが目の前にあって、それをできるだけすばやく交互にたたいてほしいと言われたとする。
その手段として、鉛筆と、丸太の棒のどちらかを選ぶように置いてあったら、どちらを選ぶか、それは明瞭だと思う。とかいっておいて、丸太って言われたらどうしよう・・汗

音楽で例を挙げると、オクターヴで、しかもフォルテで上の方から下の方まで早く下りてこなければいけない部分があるとする。フォルテだからといって、全部の力を指にかけたら、指は動きづらくなる。早く行く必要があるからと言って、軽い方がいいからと指だけの重さにすると、力強いフォルテのオクターヴは出ない。

このように、大きい音が必要だから、重さを乗せ、小さいから軽くするというほど、単純ではない。使う部品とそれに加える速度のバランスを見つけるのは、耳の作業になる。ただ、耳で探す前に、

原則8)欲しいと思う音が頭にしっかりとあること。

それを持ってこそ、本当の意味の練習が始まる。

2007年12月09日

自分を知る、楽器を知る(4) スピード

打鍵のスピードという話をしたけれど、それはどうやって調節するのだろう。

最低限のスピードで良いときは、第一関節から先をちょっと使うだけで良いだろう。
机の上に鉛筆が置いてあったとして、それを<そっと>持ち上げてほしいといわれたら、親指とそのほか何本かの指先で少しはさんで持ち上げるだろう。その時の感覚によく似ている。ほんの少し、指先で鍵盤の底をきゅっとつかむ。

それよりもスピードが必要な時は、第3関節から指先にかけての部分を使ってつかむ。ゆっくりつかむか、早くつかむか、その間のスピードが何段階にも調節できればできるほど、種類が増えるのは言うまでもない。そのためには、手の中の最低限の筋肉が必要になる

更にもっとスピードが必要なら、手首を軸として手でつかむ。ここで大切なのは、手の自然な動きに反しないということ。

手の自然な動き
とはなんだろうか。

たとえば、じゃんけんのグーを作ってみる。この時親指を横に出している人はいないだろう。いたりして・・・(・o・)
なぜかというと、手の平らの中心に向かって5本の指が集まっている状態が、一番自然だから。ついでに書いておくと、手が一番強さを持てるのは、手の中心に集まっているとき。手に力が必要な時は自然と握り拳(こぶし)を作ることからもわかる。

逆にじゃんけんでいうパーのように手をしっかり開いた状態から、指を楽に抜いてみよう。やはり指が手の中心に親指に向かい合うように寄ってくるのがわかると思う。これが手の自然な状態なのだ。

原則5) 演奏する時、できるだけ、手を自然なポジションに戻す

たとえ、和音などのせいで手を開かなければいけなくても、弾いたらすぐ“できる限りの範囲”で自然なポジションに戻す。開きっぱなしほど疲れるものはない。

ショパンの練習曲 作品10の1。右手が開いて大変なイメージがあるけれど、あれは右手に関して言えば、手をいかに閉じていけるかの練習曲。いかに開くかではない。ドソドミと弾いたら、ミを弾いた時には、ほかの4本の指はすでに小指の方に“自然に”集まってきていなければいけない。ショパンは手が小さかった人。彼の曲はどの曲も、本当に見事に、手が自然に集まるように書かれている。

これ以上のスピードが必要な時は、もうわかるだろう。肘を軸にして、肘から指までの部分を下ろすことで加速。5-6メートル先の人に、野球ボールを投げるのをイメージしてみてほしい。さらに、速度が必要な時は、30メートル先の人にボールを投げるような感じ、つまり
背中から加速して指先に送り込む。

ここで大事なことは、

原則6)どんな速度を送る時も“指先は生きている”

ということ。精密な作業は指先をきかせてするのと同じ。指先が死んでいると、速度を送り込んだだけで、鍵盤をたたいたことになってしまう。指先できゅっとつかむのを忘れない。

野球でイメージすると、もっとわかりやすいかもしれない。ボールを遠くに投げるために、腕を振り下ろした時、指は最後の瞬間までボールを握っているだろう。送り込まれた速度を最終的に“指先”が処理しているのは、ボールで考えればわかるのではないかな。

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2007年12月06日

自分を知る、楽器を知る(3) 重さ

前回のブログで

私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができる

という話をした。ここで大切になるのは、“ピアノでいう場合の” 重さとは何か。ということ。

重さを使うということと、圧力をかけるということを勘違いしているケースがとても多いからだ。

重さとは何か。また物理みたいになってしまうけど、それは重力があってこそ生まれるもの。私たちが、地球の真ん中にむかって引っ張られているから、重さというものが生じる。

ピアノの前に座って、ピアノを今弾こう、としているときの態勢を考えてみよう。椅子に座って両腕を鍵盤の上にまだ音を出さずに載せている状態。これは、重力に反していることになるのはわかるかな。なぜって、腕を本当に重力に任せていたら、だらっと下に落ちるでしょう?鍵盤の上に<乗せている状態>、というのは、音が鳴らないようにするために、腕が落ちないように支えている。つまり、筋肉が緊張している状態。

これがわかれば、ピアノでいう重さをのせるという作業は、今支えていた腕を鍵盤に“落とす”、つまり落ちないように腕を支えていた筋肉を“ゆるめる”ということは、わかるだろう。ゆるめることで、体の持つ“自然な重さ”を使うだけだ。それ以上、押したりという“圧力”は全く必要ない。

原則3)ピアノでいう “重さ”は、ゆるめることから生ずる。

でも、必ずしも腕の重さ全部が必要なわけではない。その都度必要な音に応じて、体のどの部分の重さを使うかを変える。

さっきの、ピアノを今から弾こうとする状態をもう一度思い浮かべよう。椅子に座って音が鳴らないように、鍵盤の上に手を載せている状態。もし、指の重さだけが必要なら、この状態から指の付け根(第3関節というのかな)から先の部分をゆるめてぽとっと鍵盤に落とす。指の付け根を含め、そこから腕、肘のほうにかけては、鍵盤に落ちないように、さっきと同じ支えている状態を保つ。

ここで気がついただろうか。本当に“指だけ“の重さをぽとっと落とすことができた人にはわかったと思うけれど、指だけの重さというのは非常に限られている。それを落としただけでは、鍵盤は少し下がるだけで、底まで落ちない。それは、鍵盤に“上に戻ろう”とする抵抗力があるから。指だけの重さというのは、この鍵盤の持つ戻ろうとする力には足りないのだ。もし落ちた人は、指だけの重さではなく押してしまっている。
このことからも、重さだけで音を出すのではなく、最初に書いたように、その時の必要性に合わせた適度な重さに、適度なスピードを加えることで音というものを作ることができるのがわかると思う。


もし手の重さが必要なら、第3関節の代わりに手首から先をゆるめて手全体を指先に落とす。先ほどと同様、手首を含めそこから腕、肘の方にかけては支えた状態を保つ。

腕の重さが必要なら、肘から先を落とす。同様に肘は落とさない。肘が支えの軸になるから。

それ以上必要な時は、体の重さを背中から送り込む。その場合には、背中のさらに後ろ、つまり腰が軸となる。

原則4)ピアノでいう重さ=体の自然な重さ。

どの重さを使うかは、その時々に必要な音による。それについては、次回に!

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2007年12月05日

自分を知る 楽器を知る(2) 音とは

9月のブログで、このテーマを取り上げた。言葉での説明が難しく、なかなかブログにしづらいとあれ以来苦戦しているのだが、やはりピアノを弾く上で基本になる大切な内容なので、言葉にしてみたい。

ピアノという楽器は、どうやって音が鳴る?

何をいまさら、という文章だけど、一度考え直してみてほしい。楽器を知らずに演奏はできないからだ。ピアノは誰にでも音が出せるので、どうすれば音が鳴るかなど、考えないまま今まで弾いて来ている人は山のようにいると思う。

―ピアノという楽器は、鍵盤を下せば音が鳴る。

と思いますか?

では、鍵盤を人差し指で、できる限りゆっくりと降ろしてみよう。・・・鳴らないでしょう?

―じゃあ、指先に重さをかけて弾く?

ほんとう?

さっきと同じ人差し指で、今度はすっごく重さをのせながら、できるかぎりそぉっと鍵盤を下してみよう。指先にはぐいぐい押してるけど、これも鳴らない。

何が違うんだろう。鍵盤と指にとらわれてしまわず、ちょっと目線を上げてみよう。グランドピアノという楽器は、目の前に長いのがわかる。ピアノを弾くというと、つい鍵盤と楽譜とのにらめっこになってしまうのだけど、ちょっと譜面台の向こうにあるピアノの中に目を向けてみよう。もう一度指で鍵盤を下しながらピアノの中をのぞいてみるとどうだろう。ハンマーが下から上がってきて、弦をポンと叩いて、また下に戻る。でも、ゆーーーっくり下ろしすぎると、弦を叩き損ねて、たたかないまま下に少し降りるのがわかる。

実は鍵盤って、すごく長い。指で弾いているところから、今見たハンマーのところまで長い棒のようなものだ。長い木の棒の手前を私たちは指でおろして、そのおかげで木の棒の向こう側の先っぽについているハンマーが上がる。

そう、つまり、

てこの原理。

てこって、手前を押すほど向こうが楽にあがる。奥の方を押そうと思うと上がりにくい。

原則1)特別な例外を除いて、できるかぎり鍵盤の奥の方を弾くことを避ける。手前の方がコントロールがしやすい為。

では、さきほど重さをかけても音にならなかったのはなぜ?

それは、エスケープという機能が関係してくる。難しい話になりたくないので、少しだけにしぼって説明すると、鍵盤をゆっくり下ろしすぎると、ハンマーが弦を叩き損ねて少しだけ下りるということは実際やってみるとわかるだろう。それは、弦を叩く直前にエスケープという機能が付いていて、それがあることで、ハンマーが弦にあたったままにならないで、下りてくるようにしてあるから。なぜそうしてあるかというと、ハンマーが弦に当たったままになったところを想像すれば分かると思う。ハンマーは綿みたいに柔らかいものでできていて、それで弦を押さえつけると、音が伸びなくなってしまう。シンバルをたたくときに、たたいた後二つのシンバルを合わせたままにしているようなものだから。

ピアノがこういう仕組みになっていることを考えると、いくら重さ”だけ”をかけても、それに最低限ある程度のスピードを加えない限り、そのエスケープのせいでハンマーが弦をたたく前に降りてきてしまうのはわかるだろう。

原則2)ピアノという楽器で音を出すには、打鍵をする“スピード”が一つのカギとなる。

重さをぐいぐい掛けるのではなくて、スピード。

では、重さは使わないの?

もちろん使います。それについて説明してみよう。

ピアノでは、もちろん様々な音の色が必要になる。音の色を変える方法は、和音のバランスとか、音を出すタイミングとか、ハーモニーとかペダルとか・・本当にいろいろあるのだけれど、今見たように音を鳴らすには打鍵のスピードが一つのカギになるという根本から考えると、極端にいえば送り込むスピードを変えることでも音の色を変えることができるわけだ。

逆に、同じスピードを送り込んだとしても、軽いものにスピードを足して送るのと、ある程度重さのあるものに、速度を足すのだと、到着する勢いに違いが出るのは、想像できるだろう。
たとえば、ある大きさの、紙でできた箱と、それと同じ大きさのレンガの石があるとする。それを同じ様に勢いをつけて地面に落としたとすると、落ちた時の勢いが違うのはすぐ想像できると思う。

つまり、もともとの重さ×それに足す速度(エネルギー)で到着点の勢いがかわるので、重さと速度を組み合わせによって、様々な勢いを作ることができるというわけ。

なんか物理みたい・・・汗

なので、私たちがピアノを弾く場合、必要に応じて使う重さとスピードをさまざまに組み合わせることによっていろんな音を出すことができるということになるのは、わかってもらえただろう。

自分なりに、分析してみたのだけれど、こんな感じであっているのかな・・

ふう・・・言葉だけの説明って大変・・・頭がショートしそう・・・((+_+))

・・・続きは次回のブログで♪

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2007年11月26日

~意味のある練習を学ぶ~ “どこまで”を見る

Crescendo を見ると、途端にぶわーっと襲いかかってくる演奏を時々耳にする。これを、“こわい”クレッシェンドと私は呼んでいる。聴いていて本当に怖いからである。笑

Crescendo=大きくする。といういつの間にか覚えた観念から来ているのだろう。もちろん間違いではない。でも、音楽に接するときにいつも初心に戻って考えてほしいことがある。

作曲家は、なぜそう書いたのだろうか。

楽譜を見ているとわかると思うけれど、昔に戻るほど、作曲家によって書かれた速度表示や、強弱表示が少ない。スカルラッティなどには、何も書いていない。少しずつpやmf, ff、crescendo,diminuendoなどの強弱記号やaccelerando, ritなどの速度表示が書かれるようになり、それからdolce, espressivoなどの性格に関する表示が記載されるようになる。
“撫でるように”、“不安げな”、“遠くから”・・・など、踏み込んで具体的な表示がかかれるようになって来たのは本当に近代である。近代の作品には、“言葉”の表示が本当に多い。それに対して、ベートーヴェンやショパンなど、よく見ればまだとても限られた表示のみでしか記されていない。

ということは、私たち演奏する側に必要なことは、“どんな”ピアノ、“どんな”クレッシェンドを必要としているのか、ということを考えること。そうでないと、クレッシェンドのたびに大きくしたり、ピアノだから小さくしていただけでは、行ったり来たりのすごくつまらない演奏になってしまう。

たとえばクレッシェンド。
あるクレッシェンド表示があるとする。まず何が必要だろう。それは
1) どこから(=どういう音量から)
2) どこまで
そして、
3) どのように
ということを見ること。

わかりやすく言うと、クレッシェンドと一言で言っても、どういう大きさから始めて、どこまで上る必要があるのかということ。そして、どういう風に上るか。

場合によっては、ピアノからフォルテまでかもしれない。でも、メゾピアノからメゾフォルテかもしれない。もしくは、ピアノの中でのクレッシェンドかもしれない。

一番良い方法は、まず“どこまで”を先に決めること。前後関係や、曲の全体のバランスを考えて、こういう大きさまで上っていく必要がある、ということを見極める。

次に、“どういう”クレッシェンドが欲しいのかを考える。そのために、まず見る必要があるのは、何小節かけてクレッシェンドすればよいのかということ。それによって、急なものなのか、じりじりと来るのか、それともふわーっと広がるのか・・、など。つまり、“どのように”ということを見ることができる。

どこまで、どのように、と見ることによって必然的に、“どこから”、つまりどういう音量から始めるということが見えてくる。その上で、曲の性格をみながら、いろいろな種類のクレッシェンドを作り出すと面白いだろう。

多くの場合、クレッシェンドを見ると、まず大きくし始めてしまう。そうではなく、目的を定めよう。これから階段を駆け上がらなければならない時に、2階までのぼれば良いのか、10階までなのか、それがわかっていて初めてエネルギーの配分ができる。それと同じことだ。

Diminuendoも同じ。どこまで小さくするのか、をまず見極める。とりあえず音量を減らしてくるのではない。まったく同じことが、だんだん速く(accelerando)やだんだん遅く(ritardando)にも言える。どのテンポに向かってだんだん速く(遅く)するのか。

当たり前に聞こえる今回の話。振り返ってみると意外と、“どこまで”から探して始めていないことに気付く人もいるのではないかな。基本に帰ることをいつも忘れないでいたい。

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2007年10月03日

伝えたいこと(4) 練習に必要なこと

いつのまにかマンネリ化してしまうことがある=練習がつまらない。こういう悪循環になるときは、知らないうちに何かが欠けてしまっていて、それに気がつかず、ただやらなきゃという使命感だけでおし進めてしまい、結局は空回りしてしまっていることが多い。

何が欠けているんだろう。

“本当の意味での”練習に必要なこととして、私はこの3つを上げる。

1) 向上心
2) 忍耐力
そして
3) 好奇心

1) は、<上手になりたい><ここを弾けるようにしたい>など何でも良い。きっと
さまざまな形で、みんな多かれ少なかれ持っているだろう。

2) は、曲の続きがどうなるのかが気になるとか、通して弾きたい、このかっこいいクライマックスまで弾きたいなど、つい通し練習が増えてしまう場合。または、少し弾けないところがあっても、ちょっとそこを弾き直したらすぐ先に行こうとしてしまうケース。そんな先へ進みたい欲望をぐっと抑えて、今練習しているこの場所がしっかり手に入るまで練習する必要性を忘れないでほしい。大体できたら次に行く、だと、結局また戻ってしまう。そして、できたと思ったら、確認の意味も含めて<更に>磨く。あわてず、丁寧に深く練習。これが一番の近道。

  本にたとえてみよう。話の先が気になって、ざっと読み進めてしまうことがある。でも結局、登場人物や状況が把握できなくなって数ページ戻って読み直すことになるという経験はないだろうか。

そして最も大切なのは

3) 好奇心。

ひとつのイメージがあるとする。それが音にできたと思っても満足せず、ほかの可能性はないだろうかと探してみる。たとえば、劇であるセリフを読むとき、うれしそうな表情が欲しいとする。うれしさがあふれるように、早口に読んでも良い。声の質を明るくしてもよい。でもうれしさをあえてこらえ様としているような感じでも面白いかもしれない。あふれているというより、満たされた安心感、満足感の漂う嬉しさかもしれない、あるいはその前になにか緊張することがあって、それが緩むほっとしたうれしさはどうだろう。イメージひとつでも、たくさんの可能性がある。

または指使い:楽譜に書いてあるのを試してみる。しっくりいったとしても、もしかしたらほかにもっと良い方法があるかもしれない。でも弾きやすくても、音楽的な表情をだすためには、あえて弾きにくい方の指使いの方がよいかもしれない。10本の指があるのだから、あれこれ試してみたい。

ある作曲家の曲を弾くとする。そういえば、この人ってほかにどんな曲を書いたんだろう。ピアノに限らず、室内楽、シンフォニー、歌曲、管楽器・・・たくさん聴いてみるのは不可欠だ。ベートーヴェンのソナタなら、自分の与えられた曲だけではなく、ほかの曲を弾いてみるのも良いだろう。

可能性を増やすのは、自身の“好奇心”。

私も初心に戻って、がんばろっと。
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2007年09月04日

~意味のある練習を学ぶ~  <自分を知る、楽器を知る-1>

この夏、クールシュヴェール夏季国際講習会で、1ヶ月にわたり総勢55名ほどのレッスンをさせていただいた。今年のクールシュヴェール講習会は、計31カ国から参加者が集まった。私たちのクラスも、その影響もあり国際色豊か。セッションによっては、日本人が集まった期間もあったが、それ以外に、フランス、イギリス、ドイツ、中国、メキシコ、イタリア、スペイン、コロンビア、ロシア、韓国・・ざっと思い出すだけでもクラスにこれだけの国籍があった。こうたくさんの違う顔ぶれをレッスンできるのはあまりないので、非常に興味深い夏だった。

これだけの異なった人たちに接した結果、レベル如何に関係なくほぼ大半に共通して気になることがあった。

<不自然>

ということ。音楽がということではなく、演奏の仕方がである。
体をくねったり、足が落ち着かずふらふらと前後左右にそらしたり、そして腕やひじを頻繁に動かす。あるいは、鍵盤がかわいそうなほど、ぎゅうぎゅう押したり。

みていて、苦しくなるほどものすごい肉体的な努力をして弾いている。
動くことに闇雲に反対するわけではない。音楽に影響がなければ、自分の心地よい様に動いたって良いと思う。でも、そういう場合目をつぶって聴かせてもらうと、必ずといってよいほど音楽は非常に平らな場合が多い。

不自然なのは、良いはずがない。弾いているほうもあれでは居心地が悪いだろう。

では、なぜそうなってしまうのか。大きな要因は主に二つだと思う。

1) どう演奏したいのかがあいまいな為に、動くことで音楽を表現して、言葉は悪いが自己満足になっている場合。

2) ピアノという“機械”、そして自分という"機械“を理解していない場合

1) に関しては、今までのブログでも事あるごとに触れているが、“こんな感じ”というあいまいなイメージで、満足している場合である。繰り返すが、あいまいな理想のまま音を出すと、だんだん理想のほうが下がってきてしまう。それに気がつかず、ある程度の音色が出た時点で、自分が理想にたどりついたと満足してしまう危険が高い。

* <はっきりとした>音のイメージがないままピアノを決して触らないで欲しい。

そして2)の<二つの機械>について。
多くの場合、本当によく練習してあっても、意外とピアノという機械、そして自分という機械について知らないことが多い。

* ピアノは、どうすれば音が鳴るのか。そして
* 私たちはどうやってピアノを弾いているのか。

とても簡単に聞こえるこの根本の問いかけだが、実際にその事をきちんと考え、そして掘り下げることを今まで一度もしていない人は多いのではないだろうか。でもそれこそが、なによりもまず最重要な知識だと思う。今回の講習会でその欠乏に驚いたと同時にそのことに関してレッスンで話をする必要性を痛感した。日本で行っているMessageFromBerlinプライベートレッスン。ここで会う生徒さんたちには是非そのことを事あるごとに話したいと思う。そして、日本でのMessageFromBerlinシリーズの一環として、タイトルを定めて少人数で講習をするということも考え始めている。みなさん、どうでしょうか・・・

2007年07月06日

~意味のある練習を学ぶ~ 集中ということ

前回のブログで、緊張について書いた。そこで触れた、“集中する”ということについて、もう少し詳しく考えてみたい。

演奏中は集中すると書いたけど、いったい何に集中するのだろう。
音楽に?? 本当?? 音楽に集中するってどういうこと?

まず、もう一度”練習“ということの意味合いについて考えたい。
練習には3つの大切な作業があると思う。

1) どうしたいという自分の<はっきりとした>イメージを持つ。
2) そのイメージが聴き手に伝わるためには、どういう音を出せばよいのかを考え、あれこれ試してみて探す。
3) 出てきている音が本当に自分のイメージのように聴こえてきているか判断する。

つまり、心、頭、耳。このどれも欠かせない。

それ以前に、いわゆる”機械的“な演奏が1番まずい。弾けるようになることをとりあえずの目的にして、ひたすらリズム練習などで、音だけを弾いてしまうことから来る大きな遠回り。練習を始めるにあたっては、最初からイメージを強く持つこと。これは忘れないで欲しい。

イメージを持つことの大切さについては、皆さんよく言われると思うけど、そのせいでありがちな誤解のケースが、

<自分なりにイメージを持っている=音楽的に弾いていると勘違いしてしまう>

こと。つまり上記の1)のみになってしまうこと。やっているつもりで、現実が聞こえていないタイプ。

そして次によくある間違いが
1) と3)だけになってしまう場合。
つまり、イメージをもって弾いているのだけど、思うようには響いていない気がするので、もっと強くイメージを持って、さらにとりあえず何回も弾いてみる、というケース。
理想と現実の差が聞こえているのは良いものの、その差を縮めるために<どうすればよいのか>を考えるという2)のステップが抜けているタイプ。

イメージを強く持ったからそのとおりに音が出てくれれば、こんな嬉しいことはない。
でも実際には、そう簡単にはいかず、自分がイメージする様に<相手に>伝わらなければ何の意味もない。それも、"音”で伝えなければ意味がない。

あるとき、私のパートナー(以下D)の生徒さんで、弾きながらハミングのように歌う生徒がいた。だんだんエスカレートして、最後はほとんど彼女の声の方しか聞こえないぐらいの演奏になった。なんで一緒に歌うのか、と聞くと

<だって黙って弾くと、音が歌っていないように聞こえるんです>

という返事。すかさずDが
<それは、君が黙ったことで現実に鳴っている音を聞いたということだよ。>と。

音が歌わないから、自分のイメージに近づくために、歌ってしまっている。要するに、やっている“つもり”。これほど怖いことはない。音楽家は<音>で伝えなければ、仕方ない。
顔をしかめたって、体を動かしたって、伝わらない。もしお客さんがラジオで聞いていたり、演奏者が見えない状況だったら・・と考えてみて欲しい。

そのために、大切なのが2)の作業。どうすればそう聞こえるのか、を探しに探す。ひとつ見つかったと思ってもそこで満足せず、ほかに方法はないかいろんなパターンを試してみる。この模索する時に、本当にたくさんの可能性を学ぶことができる。

たとえば、ここは不安げに弾きたい。だからといって不安げに!と思って弾いたってそうは聞こえない。むしろ音が抜けて、”不安定“に聞かせる結果になってしまう。
そうではなく、不安げに聞こえる音を出す必要がある。そのためには、”不安げ”という感情はどういうことなのか。なんで"不安“を人間は感じるのかを考える。どういうときに不安を感じるのか。不安という感情は、なにかわからないから来る。明らかであれば、怖いものはない。だから、拍子や強拍がはっきり出ないようにしたり、ペダルを薄く使って不気味な効果を出してもよいかもしれない。ハーモニーがたくさん変化する場所なら、それを利用して、一つのハーモニーに安定せず移り変わりを強調しても良いだろうし、不協和音があるなら、それを聞かせるように弾くのもよい。不協和音というのは、文字通り"協和しない”わけだから、不思議な響きとなって、不安さを出すこともできる。

これは、ほんの1つの例でしかない。こういう風に考えて探す過程で、耳も非常に養われる。また、たまたまほかの事を見つけることもできる。不安さを探していたのに、やたら明るい音が出てしまったとしたら、“明るい”方の音も、学んでいるわけだから。

不安定に聞かせたいために、実際不安定に演奏しているのではない、つまりそう<聞かせる>ことが大切なんだ、という例をもう少しわかりやすくするために、演劇をイメージして欲しい。
大きなホールで、なにか内緒話をするシーンを演じるとする。
本当に、内緒話の声で舞台でしゃべったら、誰にも聞こえない。ささやかれているように
聞かせる声を出しているだけで、実際は一番後ろのお客さんにもひとことひとこと全て聞こえているでしょう。

ピアノでも同じこと。探すことから学ぶことは本当に大きい。理想を高く持ち、あれこれ試行錯誤してみてほしい。 

強いイメージもち、実際にそう聞こえているか耳で判断し、調整する。
練習であっても、演奏会であっても、

<心、頭、耳すべてを研ぎ澄ませて>

いて欲しい。これこそ"集中”ではないかな。音楽に集中する・・・これだけでは少し簡単すぎる答えのような気がする。

2007年06月25日

~意味のある練習を学ぶ~緊張ということ

これは、いわゆる”あがり症“というタイプの演奏家にとって、永遠の課題と言えるだろう。このテーマでブログを出したいとはかなり長いこと考えていたが、とても難しいテーマで、考えに考えているうちに今になってしまった。私も自慢じゃないが、ものすごく緊張するタイプ。まだ結論や答えがでたわけではないけど、これまで考えあぐね、いろいろと試してきた過程で今思うことを書いてみたい。私と同じように、“相当あがる”タイプのひとに読んでもらえたらと思う。

私は、ある年齢まで“どうしたら緊張しないか”という事ばかりをしばらく考え、試みてきた。でも本番がくるたびに、“あぁ、今日も緊張してる。今日も震えてる・・・”と相変わらずの緊張にがっかりしていた。

ところがある時、ふと気がついた。
あがるのは、私の性格、タイプなんだ。つまり、私という人間そのものなんだ。

つまり、それを排除しようとすることに間違いがあるんじゃないかなと。おっちょこちょいの性格の子は、大人になってもおっちょこちょいだ。(←ハイ、私のことです。)それを"治そう”というところからスタートするから、本番のたびに、”今日もだめだ・・“というマイナス思考になってしまう。
私はあがるタイプだ。つまり、あがっているのが ”普通”の私。だから本番であがっていたら、”あ、今日もあがってるじゃん。いつもと同じだ“と、ちょっと自分に笑いかけて、あがっている状態を認めるようにした。そのことでまず第一段階としてほんの少しだけど、楽になった。あがらないように、ではなく、あがっている自分を普通の自分と認めて、どう付き合うか、と考えるようになった、といえばよいだろうか。

これまで、いろんな人に

本番なんて、たいしたことじゃない、失敗したって死ぬわけじゃないし。お客さんをジャガイモだと思えば良い、自信を持って!

などなど言われ、そう思おうと努力してみた。皆さんも、そういわれた事ありませんか?

<でも、そんなこと無理!>(>o<”)

第1に:お客さんがジャガイモに見えるわけなし。お客さんはお客さんだ。鬼に見えても、ジャガイモには見えん。
第2に:自信を持てっていわれたって、持とうと思って持てれば、そんな楽なことないけど、そんなの無理!

これが、私の心の叫び。というか努力してみた結果無理だった・・・泣

同じこと感じる人へ。一緒にがんばりましょう。(^_^)

そんな人のために、少しでも役に立てればというのが今回のブログ。

なぜ緊張するか・・・・・そんなこと知っても緊張するものはする。( ̄^ ̄) エッヘン(←自慢するか?!)
今の私は、それよりも<緊張と共に生きていこう!>という考えなので、緊張しているとき、いったい自分がどうなっているのかということをまず考えてみた。

舞台の上。緊張してる。そこで演奏を始めるわけだけど、私の場合、弾き始めた後の頭の中はこうなっている。

げ、あがってる。手が震えてる・・・、弾けるかな、弾かなきゃ。
次なんだっけ・・・、あ、そんなこと考えちゃだめだ。集中集中・・・。
少し落ち着いてきたかな、弾けそうかも・・、あ、やっぱりあがってきた・・・。

_もちろん、有無を言わさず曲は進む_

あと半分だ。もう少しだ・・・え、あーあーあー、左手が”ぐちゃっ”てなった、こわいー
助けて・・。

などなど
こういうことが頭を渦巻いていた。

つまり、演奏中

まったく音楽に集中していない

のだ。私のだんな様((以下D)によると、集中力は
トレーニングで着くものであり、集中しようと思ってすぐできるものではないという。
日ごろの練習で、集中力をつけるべきだと。

そこで、普段の練習で自分が集中しているかどうか、気をつけてみた。
すると、なんと言うこと!2-3小節しか弾いていないのに、もうほかの事を考えてる。
たとえば、今日はあとこの曲練習しよう、とか、あ、そういえば昨日友達と・・・とか。

これじゃだめだ、集中しよう!!
と思い直して、もう一度最初から弾き直してみても、また数小節でいつの間にかほかの事を考えている。信じられなかった。
それからというもの、練習するたびに、少しでも長く集中が続くように少しずつ努力してみた。つまり、気が散っていることに気がついた瞬間に弾くのをやめるのだ。最初の数日は、5小節も進まない。習慣って本当に恐ろしい。
でも、不思議なことに、Dが言ったとおり、それが日がたつにつれ集中できる瞬間が少しずつ少しずつ長くなっていくのだ。

集中は、疲れも影響する。疲れているのに無理やり集中しようと思ってもなかなかうまくいかない。たくさんの生徒をレッスンした後などは、頭も耳も限界に疲れていて、
練習にならないことが多々ある。
そういうことを考えると、本番の日に、あまり弾きすぎるのは良くないという意味がよくわかってきた。エネルギーと集中力を温存するためだ。

この集中力が今の私は、まだうまく続く時とそうでない時のばらつきがある。でも確実に
パニックにはならなくなった。一生勉強。焦らず、少しずつ身に着けていけたらと思う。
皆さん、一緒にがんばりましょう。笑

今回は相当長くなってしまったので、ここまでにするけど、もう一言だけ。
本番に向け、
"あれをしてはいけない、これをしてはいけない“、つまり
間違えちゃいけない、早くなっちゃいけない、などと <してはいけない>
ことを考えるのではなく、

“こうしよう、ああしよう“と、やりたいことを決めて、
積極的に演奏するのもひとつの手だと思う。

2007年02月15日

ベルリン芸術大学 入学試験

毎年2回行われる入試。できる限り毎回聞きに行くようにしている。これまで、10年近くかなり頻繁に足を運んだ。その当時、もともとひどくあがって自滅するタイプだった私は、極度に緊張する場面での精神的な強さを少しでも身につけたくて、様々なことを試みていた。その1つとして、人のいろんな緊張場面に立ちあうことで、自分の精神面での勉強にならないかと願って入試を聞かせていただいていた。最近は、私の仕事に、教える立場が加わったため、少し違う角度からの勉強をかねて足を運んでいる。その1つに、ベルリン芸大の入試をめざす生徒さんのレッスンをさせていただくことが増えてきたこともあり、入試の傾向をしっかりとつかみたいということがある。

ベルリン芸大の入試は、2次予選方式。1次は古典のソナタの1楽章(あるいは古典派作品の出だし)をほんの3分ほど聴くだけ。え、3分で何が分かるの?といわれそうだが、これが見事に分かる。あとでそれについては説明しよう。

2次では、Bach,古典派の作品、自由曲という3種類プラス初見。弾かせてもらえるのは合計で15分ほどなので、古典の作品や自由曲では、途中でとめられることになる。

ベルリン芸大の入試倍率は、年によって違うが、6倍から15倍ほど。非常に難関である。この狭き門を通り、先生方の耳に止まるのはどういう演奏なのだろう。言い方を変えれば、どんな演奏が私たちを聞き手をひきつけてくれるのか。今年は1観客としてそういう観点から聴いてみた。

入試と言うのは、独特な試験方式だと思う。次から次へと受験生が試験官の前を通り、演奏する。先生方は非常に厳しい日程で、朝から晩までそれを聴くことになる。人間の集中力や耳の新鮮さなどというのは、やはり限界があると思うので、全てを100%の集中力で聞き続けることは非常に難しい。(私が以前全員聞いたときの個人的な印象だけど。)

その中で、耳に止まる演奏と言うのがある。私の主人も審査をしていて、冗談半分で生徒さんに、

<その時間はきっと疲れて僕たち眠りかけてるから、僕たちを起こすような演奏してね>

と笑って励ましていたが、まんざら冗談ではないと思う。"目を覚まさせる演奏”と言うのが、ある。

その1つは、

― 音美人

今回、とても美しい音を出す子がいた。朝から何人もが弾いて音楽を鳴らしていったホール、しかも同じ楽器なはず。ところがその子が座ると、まだ今日一度も聞いていない、つやのある、美しい音をぽんと鳴らした。すると、ホールの空気がさっとかわり、私たちも先生方もふっとその中に飲み込まれた。

そしてもう1つの目を覚まさせる演奏。それは、

― 生きた音楽

生き生きした曲ということに限らず、静かなものでもそう、音楽に<命>が通っている演奏。みずみずしさというのかな。

そう、私たちが欲している生徒は、音楽に命を吹き込む<演奏家>。
この子は、弾けるか弾けないか・・・そういうことではなく、
この生徒の音楽が<生きているか>。そこで判断している気がする。
たった3分の1次予選でも、生きた音楽かどうかは、すぐに判断がつく。

もちろん、

<じゃあ、命をふきこもう!>

とおもって吹き込めるものではない。頭で吹き込むのではなく、心で吹き込むのだから。
本を読んだり、映画を見たり、自然と触れてみたり・・・そういうことから、感受性を日々鋭敏に育て続け、<心>を養っていくということは、芸術家を目指すものにとって不可欠なことだと思う。

<日本人的、アジア人的な演奏>
よくそういう表現を聞かされる。同じ日本人として、この言葉を耳にするのは非常に腹立たしい。ただ、残念ながらそうひとまとめにされてしまう傾向にあるのは確かだ。

入試に、恐ろしい面持ちで、しり込みしながら舞台に現れて、ただ一生懸命 

<弾いて>

帰っていく生徒が多い。少し間違えると、ため息をつき、あわててしまう。

でも、私たちはそういうところを目的に聴いているわけではない。コンクールでもない。完璧に"弾ける”生徒。それなら、学校に通う必要はないわけで、私たちは、そうではなく、これから勉強して育てていきたい"音楽家”を求めているのだ。

舞台に出てきて、
<私は、こんなに表現したいことがあるんです、こんなにこの曲を愛していて、
こういうことを伝えたいんです!>

そういうものにあふれた演奏。それが目を覚まし、私たちを動かす
私たちは、<表現をする芸術>をめざしている。メッセージを<伝える芸術>。
繰り返すが、”弾く”のではなく“伝える”芸術。

このことを強く意識してもらえたらと思う。

2007年02月02日

~意味のある練習を学ぶ~  取ったら返す

自由な演奏と不安定な演奏。この二つは、紙一重で隣り合っている。
ちょっとしたことで、大きな勘違いということになってしまう。

この二つの違いにかかわる一番大きな要素は何か。

それは、“脈”。

生きるものすべてにある、この“心臓”は、音楽にもあり、不可欠なもの。
ただ、音楽での大きな違いは、生き物や、時の流れのように、<定期的に>、<規則正しく>打つわけではないということ。音楽では、この脈が上手に伸び縮みをしながら、”自然に“流れていかなければならない。

<イン テンポ>とは何だろう。一定の速度で弾く、ということではない。音楽での<時間>は

“絶対的”ではなく”相対的“に流れるから。

少し言葉が難しいかな。

相対的ということを、簡単に説明してみよう。たとえば、今自分に5分間あるとする。この5分、<遊んできていいよ>といわれても、あっという間に過ぎてしまう。でも、おばけがでそうな、すごい不気味な場所に<ここに5分間いなさい>といわれたら、きっと長いと感じるでしょう。同じ5分が長く感じたり、短く感じたりすること、これが”相対的”ということ。

音楽での"インテンポ“は、聴いている人に、脈が<自然にながれている様に>さえ感じさせればいいのである。

ちょっと面白い例を挙げてみよう。緊迫感のある部分があり、その後、落ち着いたメロディーが来るとする。あなたなら、時間をどう使う?

緊迫しているところは、少し前にすすんで、ほっとするところでは、幅を広めにゆったり弾く?
それとも、
緊迫しているところに、時間を多めにかけて、緊張が取れたところで、音楽を前に進める?

どっちが正しいだろうか。


<どちらも正しい>のです!


これこそが、”個性”ということ。同じ緊張感をどう表現するかは、個人の自由だから。

このように”伸び縮み”をしながら、実際は気持ちよく脈が進んでいくように聞かせるのである。しかし、気持ちよく進んでいく場合、横にメトロノームを置いてみたら、絶対といって良いほどずれていく。これは、さっき説明した”相対的”ということを考えれば当然のこと。一定に流れているかの<様に>感じさせているだけなのだから。この時間の<伸び縮み>をいかに必要に応じて使えるかが鍵となる。

伸び縮みをどう使うかは、音楽の緊張感が大きく作用する。どこがどの程度緊張しているのかを知るには、ハーモニーの動きを理解することが、不可欠になる。このことをブログで短く説明するのはかなり難しいので、残念ながら書かないが、感覚や本能で弾くだけではなく、ハーモニーや、ハーモニーの変化が生み出すリズムを知り、それをうまく生かしていくことは、避けられない。

難しい話は置いておいて、1つだけ覚えていてほしいことがある。 

-借りたら返す-

ということ。ルバートということばの語源は、ラテン語で "取る、盗む”ということらしい。
時間を前の音から”取る”。とって次の音を少し長くした分、また前に進む。つまり、時間を"返す”のである。

取ったり、返したり・・・つまり、これこそが<伸び縮み>を生みだす。
自由に弾こうと、時間を<取りっぱなしに>するから、<伸び縮み>ではなく<伸びっぱなし>になる。反対も同じ。そして、音楽が不安定になってしまうのである。取ったら返そう!

2007年01月24日

~意味のある練習に向けて~ <ペダル>

ぱったんぱったん、どっかんどっかん・・・。レッスン室に、ときたま鳴り響く音・・。この騒音は、そう、

<ペダル>

工事現場かここは・・(-_-#)


前回のブログでかいた、Give and Take。ペダルでも、まったく同じく:

1) 足がペダルと”接触”状態にあること。
2) 踏んだ後の戻し方にも十分に意識を払うこと

が不可欠である。

ところが、緊張すると足がペダルの底までしっかり入りそのまま動かない、という車でいうブレーキの役割になってしまうケースが多々ある。

実際には、ペダルの底に達するまでには、踏み入れる“段階”が無数にある。(ウナコルダも同じ。)一番底まで踏むことは、とても“まれ”だと思ってほしい。(底のほうまで踏まないと全然きいてくれない、という調整の悪いピアノの場合はもちろん別だけど。)

ためしに、ダンパー(ピアノの弦の上側にあるやわらかい綿)を見ながら本当にゆっくりゆっくりとペダルを踏んでみて欲しい。しつこいが、ゆっくりゆっくり踏み入れる。
ある時点でダンパーがそっと弦から離れ始める点がある。この瞬間を足でつかむ。ダンパーが弦から離れる瞬間こそペダルがかかり始める点だからである。この点を足のどこでつかむかというと、足の指の付け根よりもう2-3センチ下にある硬い部分。ここが一番微妙なコントロールがし易いため。ここで、ペダルがきき始める地点をすばやく捕らえて、あとはその前後(上下)ほんの少しの間でペダルを踏んだりあげたりする。それがほぼ80%のペダルの使い方。

ピアノの調整によっては、かなり深く踏み込まないとダンパーがあがらないペダルがある。この場合、いくら上っ面のほうでこまめに踏み変えても、無意味ということになる。

もうひとつ、コントロールのために必要なのが、かかと。かかとが浮いてしまっては、コントロールがしづらい。女性の場合、演奏会用の靴にヒールがあるのは当然だけど、あまりヒールが高いもの、あるいはかかとが異常に細く滑りやすい靴はペダルのコントロールの妨げになるので注意してほしい。かかとが"支点”として、軸になっている必要があるためである。

これらのことは、わかっている人が多いと思うが、音の多いところ、難しいところ、盛り上がったところなどになると、意外とペダルへの意識が薄くなり、"踏む” “はずす”というOnかOffかになってしまう。また意外に多いのが、緊張などで、ペダルの戻りにまで意識が行かず、乱暴にはずしてしまい、ペダルが激しく戻るときのかなり大きな雑音を生んでしまっているケース。せっかく指で美しい音を作り出してもペダルのせいで騒音になってしまうのである。

美しい音質の邪魔になる騒音が3つある。

1) ペダル(とくに乱暴に戻すとき)
2) 鍵盤に指があたる音(高いところから打鍵するため)
3) 鍵盤の底に指が当たる音 (必要以上にあたるため)

この3つを避けなければいけない。

ペダルは何のために踏むのか。
それは

"色”のため。

音を伸ばすためでも、弾けていないところを隠すためでもなく、
ペダルをつけるからこそできる”色”がある。その意識で使ってみて欲しい。

2007年01月16日

~意味のある練習に向けて~  <Give and Take!>

ピアノを弾くこと=鍵盤をおろすこと   

ではない。

ペダルをつかう=ペダルを踏み込む 

ことでもない。


どうしても、弾く、踏む、という“Give”的な方向にばかり意識がいってしまうことが多い。でも、“踏む” なり “弾く”なりしたものの“後始末”をすることがいかに大切かと言うことを忘れてしまう。

考えてみれば、
部屋の片付けでもそう:出したらしまう。
会話でも:話し手にも聞き手にもなる
そして
恋愛では、7押して3引くんだそうな。(昔、同級生だった 軽~~~いノリの男の子が言っていた。笑)

↑全然参考にならない? (^^♪

いや・・・私が言いたかったのは、鍵盤をおろすことだけに注意を払うのではなく、下がった鍵盤をどう戻すか、ということに意識を持っていることの大切さ。ペダルも同じ。どうあげるか。

鍵盤をおろす。でも、それ以上いくら押しても意味がない。
ある公開レッスンで、

―音を歌わせるために、鍵盤の底に着いたら、そのまま指をヴィブラートさせて・・

といって鍵盤の底で指をぷるぷるさせていた人もいたっけ。 


だから、何も変わらないってば!


エェー、コホンッ!(;-o-)o” 失礼・・・

そうではなく、鍵盤をおろしたらそれをどう戻すか、ということにも強い意識を持ってほしい。

1本の指で鍵盤をおろす。そしてゆっくりと指を緩めると、鍵盤は自然とあがってくる。(決して指で“あげる”のではない。緩めるとあがって来る。これはすごく大切なこと!!)あがってくるスピードを指先で感じることで、そのピアノのアクションの具合が分かる。重いピアノ、軽いピアノ、と一般的に表現されるあの感覚である。たとえば、ゆっくりあがってくるということは、そのピアノは重く感じる。これをいかに瞬時に指先で感じ取ることができるかで、本番など前もって触ることのできない楽器で弾く場合にも、ある程度恐れずに弾くことができる。

大きい音を出したい、だから思いっきり弾く・・のでは、思った音が作り出せない。硬すぎて騒音になるか、がんばった割にはもの足りないなどとなってしまう。

鍵盤の戻りがどれぐらいの速さだから、それに対してこれぐらい・・という“必要な速さ”がある。それを入れる。それが “弾く“ことの基本。闇雲(やみくも)に早く打鍵したり、ピアニッシモにしたいからそっと打鍵しても、ぼこぼこの演奏になってしまうだけ。

また、戻りをコントロールするということは、<音の切れるところ>を自分で作る、ということにもなる。鍵盤を下げて、ゆっくりと戻しながら、ダンパー(弦の上にある白い綿たち)を見てみると良い。鍵盤をゆっくり戻すにつれて、ダンパーが弦の上に降りる。降りた瞬間に音が切れる。これも自分で”作り出し”ていなければいけない。ピアノは音が“出る”のでも"切れる”のでもなく、演奏者自身の手で、音を"作り”、”切る”のである。

<鍵盤の戻りを感じ、必要とされている速さと量を必要なタイミングで入れる。>

そのために、指先(指の腹の部分)の鋭敏な感覚を育てることと、鍵盤との絶え間ない接触が必要となる。

鍵盤との絶え間ない接触・・・難しい響きだけど、要するに 

近くから弾く

この言葉ならよく耳にしていると思う。近くから弾くように、といわれるわけは、これで少し分かってもらえただろうか。

ペダルもまったく同じ原理。Give and Take!
これについては次回のブログで書いてみよう。

2007年01月10日

~意味のある練習に向けて~ <親指>

手をじっと見つめると、“あなた、生えてくるところ間違えたんじゃない?”とつぶやきたくなってしまうのが親指。この指だけが、なぜか手のかなり下のほうから生えている。
足の指なんて5本ともそろっているのに・・・笑


こんなに短く、しかも引っ込んだところから出ているのに、遠慮がちかと思いきや、この親指こそが、私たちの演奏に大きく左右する主なのである。

親指の使い方に関しては、いろいろ既に先生たちから言われていると思うので、私は、他の視点から書こうと思う。


手首が高い、と言われたことはないだろうか。私の生徒たちで最近よく見る問題の1つが、手首が高く、手の甲がつぶれている形の弾き方。もちろん、形から入ることが大切なわけではないので、最終的に思うような音が出せるのならこだわらなくていいとは思うのだけど、大半の場合は、そのせいで演奏の妨げになってしまっている。

―手の甲を山型にして、手首を下げてね。

こう伝えたところで当然直るものではない。私も昔、手首がかなり高く、下げようとすると、どうしても不自然になって苦労した。鏡を横に置いて、外見からは良さそうなポジションにしてみても、体の感覚としては、どうも不自然に感じられる。これでは外見から直しても無理だと思い、何が原因で手首が上がってしまうのか、“犯人”を探すことにした。

そして、長い道のりを経て見つけたのが親指。この指が木の棒のようになってしまっていたのだ。つまり、親指がまっすぐ受身で“待っている”状態になり、腕から押すことで、手が鍵盤に近づき、指が鍵盤を押すので音が鳴る、という具合になってしまっていた。

こうなると、どういうことになるかというと・・・

親指が受身になる→親指と小指を結ぶ手のひら側のラインの支えがなくなる→手のひらを支える橋がなくなり手の甲がつぶれてしまう。

実際は親指が腕で押されて弾くのではなく、指自身で弾く必要がある。親指を他の指と同様、付け根(親指の場合は手首のところ)から使おうとすると、手首が自然と降りてくる。手首が高いと、”突く”しかない状態なのだ。それが分かって、親指への意識をかなり高めて練習しているうちに、不思議と手首が降りてきた。<下げる>のではなく、<降りてきた>。だからとても自然に感じられる。こうなることで、親指と小指を結ぶ線の手のひら側の支え(これが本当に大事!橋の橋脚のような役割になるため)ができ、手の甲も支えられると言うわけ。

手首を下げようとするのではなく、なぜあがってしまうのかを考える。
いつだったかのブログに書いた、“犯人探し”は、ここでも役に立ったと言うわけだ。

むむむ、親指め。あなどれない・・・

2007年01月04日

~意味のある練習に向けて~ レガート(2)<歩くこと>を考える

歩く。どうやって歩いている? そんなこと考えたことなかった。

右足が地面をつかみ、左足が前に出て、その足が地面をつかんだ時点でさっきの右足が地面から離れる。
簡単なようで、とても複雑なことを、実はなんにも考えずに普段からしている私たちってすごい!

でもこれって、ピアノのレガートとまったく同じなんです。

前回のブログではなした 五つの音のレガート。”言葉“と比較することでレガートと言う感覚を説明したが、今日は ”歩くこと“を考えることで、実際に指で行っていることを説明してみたい。

歩くこと・・・上記に書いたように、歩くとき、私たちは右足と左足の見事な受け渡しで、前へ前へ円を描くように足を次々と出していく。反対に“すり足”で歩くことをイメージしたら”円を描くよう“という表現は分かってもらえると思う。

ところがピアノになると、レガートを弾きたいと思うがゆえに、1つの音を弾くと、その指を爪が白くなるぐらい鍵盤にしっかり押して、次の指が来るまでしがみついているというのをよく見かける。

でも、足の場合を考えてみる。歩くとき、地面を捉えた足は、そのまま地面にしがみついてはいない。足が地面と接触して、離れないだけで、ふんばってはいない。足の指も、がんばってはいない。ただ、その足には自然な体の重さが乗っているので、足をぐにゃぐにゃにすると倒れてしまう。だから倒れない程度に、足の裏が地面を感じて支えている。

指もまったく同じ。弾いたら次の足である“指”が来るまで、鍵盤とのコンタクトを保っていればいいだけ。しがみつく必要はなく、自然な重さを今弾いている指の腹にのせて、指が崩れないように鍵盤を感じながら支えていれば十分だ。

歩くことに戻ってみよう。次の足が来る。次の足が地面を捉えた瞬間、前の足は地面から離れている。離れているだけでなく、離れたと同時に次の一歩へむけてもう準備に入っている。

ここでも指はまったく同じことをする必要がある。ところがある音を弾いてから、次の音の準備に入ってしまう人がとてもが多い。つまり、ある音を弾いてから、その次の指の準備をする。そうすると、ジェスチャーがひとつ余計に入ることになり、ギクシャクしてしまう。

分かりやすいように、たとえば右手の2,3,4の指で順番にレミファとレガートで弾くとする。

2の指(レ)を弾いたと<同時に>、既に3の指の準備ができている必要がある。レを弾いてから、よいしょと3の指をあげていては遅い。2の指を弾いたと<同時に>3の指を上げる。確認してみてほしい。これって以外とできていないもの。

その次、3の指でミを弾くときが大事。ミを弾いた<瞬間>にしていなければならないことが3つある。

1)2の指を即座に緩める。
2)今弾いた3の指を、打鍵したと同時に緩める。この際、指の腹はと鍵盤とのコンタクトを感じているだけで、必要以上に押し付けない。
3)4の指(ファ)を準備する。

繰り返しになるが、これらが、ミを弾いた“瞬間”に、一度に<全部!!>できていないといけない。

1)ができていないと、歩くときに、次の足がもう地面についているのに、前の足もまだ引きずっていることになる。
2)ができていないと、いちいち地面に足を貼り付けて、ふんばりながら歩いていることになる。
そして
3)ができていないと、転んでしまう。

歩くことに例えると、簡単にイメージできると思う。歩くときと同様、前の足(指)から次の足(指)への受け渡しを、決して動きをとめることなく、円を描くように円滑に続けなければいけない。

そしてもうひとつ。歩くとき、次の足が地面に着く<直前>まで、その前の足に重心がまだ乗っているのはわかるだろうか。指でも同じ。次の指を準備はするものの、弾く瞬間までその前の指に重心を乗せている。そして、少しずつ次の指に移すのではなく、“一度”に移す。そうでないと、はっきりと次の音が発音されず、もやもやと口の中で言葉を話しているのと同じことになってしまう。

ここまで、2回にわたってレガートについて説明してみた。こうやって文章にするととてもややこしく感じられるかもしれない。でも家で歩いてみて、どうやって足を運んでいるか是非自分で見てほしい。完璧な足のレガートを。

歩くこと、話すこと。日常生活を見れば、レガートは誰もが自然にできていること。レガート教えてくれる先生は、ほかでもない、自分の体にあるのです!

2007年01月03日

~意味のある練習に向けて~ レガート(1)<こんにちは>から学ぶ

レガート・・・これは、私たちにとって永遠の課題だ。
レガートができない生徒が本当に多く、これをどうやって伝えたら一番分かりやすいか、長年頭を悩ませているというのが本音。まだ模索の途中ではあるが、今の時点で一番しっくりくる方法で説明してみよう。

レガートとは何か。ちょっとピアノを離れてみよう。日常生活に目を向けたとき、”完璧な“レガートと言えることを私たちは、なんてことなく誰もがおこなっている。それは

1) 言葉を話すこと
そして
2) 歩くこと。

今日はまず ”言葉“の例で、レガートととはどういうことかを説明してみよう。

<こんにちは>と発音してみる。これは完璧なレガート。みごとになめらかにつながっている。でも、なめらかにつなげているのに、こ、ん、に、ち、は という五つのことばは1つずつきちんと発音している。

そして、1つずつきちんと発音しているが、決して<棒読み>ではない。言葉がなめらかな<曲線>を描いているのは自然と分かるだろう。

ピアノでも同じこと。ドレミファソでレガートをするとしよう。

“滑らかにつなぐために、前の音を少し残して次の音を弾く”

という人がいる。
でも、そんなことは、言葉ではしていない。<こ>と<ん>や<ん>と<に>を一緒になんて言っていない(いえない・・・笑)のに、見事なレガートになっている。つまり第1にレガートの基本は


<一つずつの音をきちんと発音する>


滑らかにしたいために、ふにゃっとした音を出したり、次の音を重ねて弾いていても、きれいなレガートになるわけではない。言葉と同じで、一つ一つをはっきり発音しないと、何を言っているかわからない。

次に、<こんにちは>をまず、棒読みで発音してみて、それから正しく発音してみると分かると思うが、ほんの少しではあるが“にち”あたりに向かっていて、”は“で閉じている。つまり第2のポイントは


<決して五つの音を ”平ら“には発音していない。>


音と音を結ぶ線が<曲線>を描かなければいけない。五つ平等につなげばいいというわけではなく、そうすると言葉で言う“棒読み”と同じ結果になってしまう。

そして、もうひとつ、とても大切なポイント。
<こんにちは>に戻ってみると:
“こ”と発音した後、次の“ん”を発音するまで“こ”を責任もって発音していることに意識をしてみてほしい。“ん”が来るぎりぎりまで、“こ”といい続けている。同じように“に”というまで “ん”を発音している。かならず次の音が来るまで、前の言葉を発音し続けている。ここで第3のポイント


<発音した音を次の音が来るまで聴き、運び続ける>

ここで問題になるのが、ピアノという楽器。弦楽器や、管楽器、歌であれば、息や弓を使って次の音まで運び続けることができる。でもピアノは一度出した音は、だんだん小さくなっていく。

そこで ”耳“の出番!!!

出した音を耳で追って、消えていくその音に段差がつかないように次の音をおいていく。段差がなければいいのだから、必ずしもその前の消えていく音より小さい音を弾く必要はない。大きめの音を重ねることだって当然できる。大事なことは、

―音と音を結ぶ線が、曲線を描くこと。

次の音をいくら気をつけても、耳が今出ている音から離れてしまった時点で、決してつながらない。前回のブログのように、”一つ前の音が鍵”というのがここでも言える。耳の意識が前の音から離れてしまうと、

 こっんっにっちっはっ

と、とぎれとぎれに言っているようになってしまうか、こ”ん”にちは。や、こん”に”ちは といったように、へんなイントネーションの言葉になってしまう。

レガートという“感覚”を言葉に置き換えてみることで、少しは身近に感じられるのではないかな。部屋にこもって“こんにちは”と何回かつぶやいてみてほしい。きれいなレガートでしょう!

次回のブログで続けて、今度は ”歩くこと“を通して,レガートを実現するテクニックを説明してみたい。

2006年12月18日

~意味のある練習に向けて~  ―<だめ>を試す―

こんなに、時間をとってもいいのですか?

これは、硬すぎませんか?

これだと小さすぎるのでは・・・

これ、音色変わってますか?

こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。

“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。

こんなケースに私が言うこと:

<だめ>なことを試してみればいいじゃん!

固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。

スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。

少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。