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2006年12月18日

~意味のある練習に向けて~  ―<だめ>を試す―

こんなに、時間をとってもいいのですか?

これは、硬すぎませんか?

これだと小さすぎるのでは・・・

これ、音色変わってますか?

こういうことを最近よく耳にする。硬い音、大きすぎる音・・これらを恐れることからだんだんと、演奏が小さくなってしまうケースは多い。

“だめ”なことを恐れるがゆえ、無難になる・・・これは一番避けてほしい演奏の一つ。

こんなケースに私が言うこと:

<だめ>なことを試してみればいいじゃん!

固すぎる音を避ける前に、”硬い”音を出してみる。そこから、硬くならない限界ぎりぎりのところまで戻ってこればいい。小さすぎるピアニッシモ。小さすぎる音を出してみない限り、その限界はわからない。

スフォルツァアンドやアクセントが自然かどうか。
―もし、ここにスフォルツァンドなどがなかったとしたら、どうやって弾くか。
1度 ゛なし゛で弾いてみれば、意外と簡単に見つかるんじゃないかな。

少し難しいことになるが、和声が意外な展開をする場合。当然そこで色を変化をさせたい。
その場合にも、まず和声が変化しなかった場合の、普通の和声進行で弾いてみる。
たとえば、 ドミソ→ソシレ→ミ♭ラ♭ド という和音進行があったとしたら、
ミ♭ラ♭ドで突然ハ長調ではなくなりますよね。そこで色を変えたい。

まずは、これが"普通“だったら、どうなるかを弾いてみる。つまり ドミソ→ソシレ→ミソド。そしたらおのずと、どういう色をミ♭ラ♭ドに付けたいか、すこしは見えてくるのではないだろうか。

<だめ>を試す。それがないと、知らず知らずのうちに演奏が
“安全圏”に収まってしまう。あるいは、“先生”に判断してもらわない限り、
自然なのかどうか、硬いのかどうか、判断がきかなくなってしまう。

<だめ>を試すことで、自分の演奏できる“空間”が、思っていたよりもずっと広く感じられるのではないかな。知らないうちに、"安全”という窮屈な思いをしていないかな。

音楽が持つ空間は、魚が泳げる海の範囲のようなもの。自由に泳げるように空間を大きく大きく絶えず保っていてほしい。水槽の中は、守られているかもしれないけれど・・・。

2006年12月15日

~意味のある練習に向けて~  ―カギは一つ前の音―

この12月から、MessageFromBerlinと題して、日本でプライベートレッスンを開始させていただいた。レッスンでは私の方がたくさんのことを生徒さんから学ばせてもらえて、非常に楽しみにしている。

これにあわせて、ブログ上でも私の日ごろの模索から気がついたことを、書いてみようかなと思いついた。勉強の過程での“思いつき”だから、また10年後には違うことを書いているかもしれない。でも、ま、それもいいかなと・・・。

というわけで、今回のテーマは、“鍵は一つ前の音”。

私の生徒を見ていて、特に多く見られることの一つは、”できないところを何度もただ繰り返して練習する“こと。これは、とても危険なことだと思う。”このへん“が弾けない、という場所を繰り返して弾くうちに、なんとなく正しく弾ける確率が増えてくるので、”弾けるようになってきた“と解釈して次へ進む。そりゃ、誰でも何回も繰り返したらその瞬間は、正しい音に命中する確率は増えますって。

ところが、翌日にはまた大体しか弾けず、
“先生、いつまでたってもここが弾けるようになりません”
ということになる。

たまに、

“先生、ここ、どうしても汚くなるんでどうにかしてください”
という人もいる。美容院か、私は・・・

練習をする上で、不可欠なことは、“原因を突き止める”こと。“このあたり”が弾けないのではなく、はっきりと“どの音”が原因なのか。大半の場合、ひとつ "こいつのせいだ!“という犯人が潜んでいる。私も、自分の練習で弾けないパッセージを見つけると、まず犯人捜しに取り掛かる。この犯人、なかなか手ごわい。となりの音に濡れ衣を着せている場合が多い。ふっふっふっ、みつけたぞ。お前だなあー犯人は。
みたいな、とても怪しい練習をしている私・・・。

たとえば、右手の親指で真ん中の”ド“を弾き、すぐに小指で2オクターブうえの”ド“を
弾かなければいけないとする。
よくレッスン中に見る光景が、この2音を弾いて、飛んだ先の小指をはずしてしまい、生徒はそのまま、はずしてしまった、上の“ド”を、
にっくきヤツ、あんなに練習したのに、こいつこいつーとばかりに、“ドドドドドド”と連打。そして、そのまま先に進んでしまうのである。

あら・・・

上の“ド”は、大半の場合、無実です。かわいそうに・・・。
で、誰のせいかといえば、いろいろ可能性はあると思いますが、

(1)飛ぶ前の最初の“ド”。飛ぶことに頭が行ってしまい、この“ド”をちゃんと弾かないまま飛ぼうとすると、それは地面をちゃんと蹴らないがうえにできない鉄棒の<逆上がり>みたいなもので。

(2)二つの“ド”の間の“移動係”。えらい怠け者のせいで、移動が遅い。

ただ、(2)は、(1)が原因になって移動が<遅くなってしまう>ことが多いので、やっぱり犯人は(1)かな。

などと、考える作業が、練習の一番の基本。やみくもに弾く前に、考える。それから、それに見合った練習方法を考える。

大半の場合、”弾けない”箇所、つまりよくはずしてしまう箇所は、その”一つ前“の音が原因のことが多い。ということは、念頭においてほしい。考えずに、同じ場所を繰り返し弾くことは、
間違えたテクニックを体に記憶させてしまうことにもなり、弾けるようにならないだけでなくて、逆効果にすらなってしまう。事態を悪化させる可能性が高いので、とても気をつけてほしいと思っている。

私がよく言うことの一つ、

”がまんする”ということを覚えてほしい。
弾いてしまわず、ちょっとまって考えること。

“一つ前がカギ”

これは、”音色を変える”
場合にもいえる。
よく、

―そこ、もっと変えて―

と言われることが私もあった。ただ、変えてと言われても、え、どうやって・・・みたいな。私も随分頭を悩ませた。色を変えるためには、思ってるよりもたくさんの手段がある。これは、また次回以降のブログにまわすとして、その“たくさんの手段”のなかの一つが“一つ前の音”になるということだけ書いておきたいと思う。

色を変えるということは、どういうこと?

<変える>

つまり、これは<何かに比べて>変わっている必要がある。つまり少なくとも、二つの音がなければ ”変わった”ことにはならない。変えたいと思う音だけを一生懸命、あぁでもないこぅでもないと、弾いていても、仕方ないわけで、もっとも単純に言ってしまえば、その<前の音>と変わっていれば、色が変わったことになるということ。つまり、前の音がカギになる。前の音を責任を持って作る、聴く。このことがポイントになる。どうしても、変えようと思う音のほうに意識が言ってしまうせいで、その前がないがしろになることが多い気がする。

もう一つ、”休符“。

―休符に緊張感をもって-

これもまた、私も苦労をしたシロモノ。
あるとき、<休符に緊張感ってどうやったらできると思う?>と生徒の1人に聞いてみた。

―えっと、体も動かさないとか?-

といってその彼女は両手に、にぎりこぶしを作り、表情もみじんも動かない様子を見せてくれた。

・・・・・それって、あなた自身が緊張してるだけでしょぉ・・・(-_-#)

と、からかってみたものの、休符に命を吹き込むことは難しいことの一つ。

たとえば、お芝居で

“ねえ、きいて”

という台本をもらったとする。その後に来る文章が、どうでもいい話の場合には、

ねーきいてよぉー、彼氏がサーぁ・・・

みたいに、語尾がだらっとなるのではないかな。男の子なら、”俺サー“みたいな。

でも、なにかとても緊張した話のとき、“ね、きいてっ!!!”って私なら言うかな。

同じセリフでも、どう言葉の終わりを処理するかで、その後にくる緊張感が変わる。
まったく同じことがピアノでも言えると思う。

休符の一つ前の音。これをどう切るか。ペダルに任せず、自分で責任を持って切る。これだけでも、そのあとにある休符に命が吹き込まれる。

休符は、音の一つだと思ってほしいと、いつも生徒に言っている。休みではない。

私のレッスンのモットーは、

“どうやって”

も説明すること。深い音出して、暗い音出して、という指示だけでは、最初のうちは難しいと思う。そのためにどうすれば良いか、これを生徒と知り合って最初のうちは説明することが必要だと思っている。ただ、それはかなり難しいこと。これからの課題でもある。がんばろう・・・

MessageFromBerlinプライベートレッスン、もうすぐ12月コース終了。次回は3月。
がんばって勉強しなきゃ。


2006年12月13日

こばなし編: 悟り?

男の人にとって、”はげる”ということはかなり深刻らしい。私の母は若いころ、父の薄くなり始めた頭を

”はげはイヤ、はげはイヤ”

と言いながらマッサージしていたという。←どんな母・・・

そんなある日、若かりし父は勇気を振りしぼり、はげをなんとか防げないかだろうか、と相談に専門医を訪れることにした。

そして診察室の扉を開けたその時、
父はすべてを悟ることになる。

       ―――先生がはげだったのである―――

はげの専門医がはげ・・・

そして父は、

<だれも自然には逆らえない>

ということを学び家へと帰ったそうな。

うちのぱぱの小話(実話です。笑)でした。

2006年12月10日

またひとつ

またひとつ、栄養を吸収しました。笑 一生勉強。それが私のモットー。
12月8日のソプラノリサイタル。初めての歌との共演で緊張と楽しみとが入り混じっての本番となった。

楽しかった!!これが一言目の率直な感想。楽器もすばらしく、松尾楽器の目を見張る調整も加わり、私が試したかったさまざまな事を舞台上で実現できて、あっという間の90分。
1人の演奏会ではないから、歌のかたが奏でる本番での“色”を聴きながらの私の色選び。バランス選び。本番中にしかできないことに、とても良い具合で集中できた。

本来、心臓が飛び出るほどのあがり症な私。でも、“あがってるんです”と言ったところでなにも始まらない、というのだけは、これまでの様々な経験から痛感。そんなこと、お客さんはどうでもいいわけで、あがっている状態で、それをどう楽しんで音楽に集中するかが、私の永遠の課題。またいつか、この件についてもブログを書きたいのだけど、いずれにしても “今日も、あがってる!”ということにあがってしまうのが、大半のパターンだと思うので、 

―今日 “も” 上がってるじゃん、私。―

みたいに、上がっている自分を“本当の自分”とうけとめて舞台に出るようになってから、少しだけだけど楽にはなってきた。いつも同様、舞台上で手がぶるぶる震えていたけど、それをみながら、これが私の"普通”の状態、と思うというか・・・。

あがり症で・・・という人が生徒にもたくさんいる。私は、自信を持って(←自身持つところか? 笑)、

 “私ほどあがるひとはいるのかな・・・“

というぐらいあがるタイプ。だから、どうにかして生徒にもそれをどうコントロールするかということを手助けしてあげられたらなと思っている。またいつかブログにしてみよっと。

新しい幕開け。歌との共演。このような場に声をかけてくださった北村さんに本当に感謝。あわせでは、多くを語らず、要点だけ ”こんな感じ・・・“と伝えてくれる。その内容が非常に的を得ていて、細かいことをたくさん指示されることが苦手な私には、この要点をついた、しかも非常に的を得ているひとことひとことが、大変勉強になった。これからの成長過程で、またひとつ大きな栄養をいただいた。

2006年12月 4日

いよいよだ!

8日のソプラノ歌手との共演。私にとって初めてとなる歌との共演に向け、できるだけ多くのことを吸収したいと、これまでいろいろなことを試みて来た。今回に限らずだが、普段から、本番に向けて準備期間がマンネリ化しないためにも自分なりに目標を立てるようにしている。こうすると緊張しているときに、何かに集中できるので良いという点もあると思う。

今回追求したいことは、音楽の脈と色。脈は音楽にとっての心臓ともいえると思う。"脈”をいかに自然に音楽に浸透させるかは、ソロであっても非常に難しいと常々感じているが、共演となるとさらに難関であり、まさに不可欠な最重要事項のひとつだと思っている。脈をそろえようとか合わせようとするのではなく、<相手と一緒に呼吸できること>が理想だと思う。そうは言っても、二人の違う人間であり、しかも本番にどういう脈を彼女が生み出すかは、そのときにしか分からないので、スリルであり、楽しみでもある。

そして色。これも私が永遠の課題として取り組んでいることの一つ。あの黒い楽器には無数の色の可能性が潜んでいて、どれだけそれを引き出し、また混ぜ合わせることによって、新たな色を生み出せるかを追求することは、演奏家の使命だと思う。特にピアノの特徴であり魅力は、同時に多声部を鳴らせること。1人でオーケストラができる楽器とも言えるかもしれない。それだけ、同時に出せる色の種類が多いわけだから、それらを混ぜることによって生まれる色も無限に膨らむはずである。共演となる場合には、歌のかたの作り出す”絵” 全体の雰囲気が私が置いていく色ひとつで大きく変わることになるので、大変な責任を痛感している。

たとえば、真っ白の画用紙に書かれた”家“を想像してみてほしい。描かれた絵の背景を、山にするか海にするか、朝か、夜か、春なのか、冬なのか・・・。単純にそれだけでも、この画用紙の "家”という名の作品がまったく違って見えるのは明らかだ。歌のかたが、本番にどんな”家“を描き出すかは、私にも未知で、そこに今の私にどんな色付けができるか、責任を痛感しつつ精一杯繊細に反応できればと願っている。

脈と色。音楽の"心臓”と”命”と言えるのではないだろうか。

演奏会は、12月8日、19時より。王子ホール(銀座)にて。